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わが国の〝かたち〟をとりもどそう 武道のすすめ②

その九十
わが国の〝かたち〟をとりもどそう
- 武道のすすめ - ②
三 道について
 日本人は「道(どう)」ということばを好んで使う。柔道・剣道・弓道、そしてそれらを総称する「武道」はもとより、花道・書道・茶道など数多く使われている。またスポーツについても「野球道」と呼ぶなど、あらゆる分野に「道」をつけた言い表しかたをしている。
 日本人は、とかくの事に「道」をつけて呼ぶことによって道徳的意義を問い、人格の形成や生き方と大きな関わりをもって考えてきたようである。生け花や手習いを「花道」「書道」と呼ぶことによって、習い事を人間形成の「道」に昇華させようとした。同じように、武士の心組み、生き方にかかるすべてを「武士道」と思想づけ、自らの道徳原理とし、また己を高めるすべとした。新渡戸が見いだしたように、わが国ではこの「道」が根底にあるゆえに、ことさら宗教の信仰がなくても国民はおしなべて道徳的であり得たのである。
 この「道」という観念は、日本文化独特のものであり、日本人の意識構造や宗教観にも重要な位置を占めた。そしてこの「道」が、わが大和民族の道徳を大きく支えてきたのである。
 武道や芸道における「道」は、「技術上達の道」イコール「人間向上の道」というふうに、身体と心あるいは技と心を一つとしてとらえようとするものである。そしてその技をつくりあげる段階において極めて内省的に自分の心身をとらえ、わが身を自然の法則と一致させようとした。「稽古(けいこ)」あるいは「修行」ということばは、自己を向上させようとする営みとして表現された。武道や芸道を問わず、あらゆる「道」は、つまるところ「人間形成」という目的に集約されてしまうのである。
 翻って考えてみると、「宗教教育がない」といわれるわが国に、「道」の観念が衰退したら国民の道徳心が地に落ちるのは当然のことである。そしていま、わが国はその状態に陥りつつある。
- 〝モラル崩壊〟の原因はここにある -

四 節操に危うい国、日本 
 昔も今も日本人は、キリスト教やイスラム教などの一神教の国の人たちと比べると、きわめて宗教的に寛容である。神前で読経したり、神社に神宮寺をつくったり、寺院の境内に守護神を祭って鎮守としたりする。卑近な例をあげれば、年末にはクリスマスを祝い、お正月には神社で柏手を打つ  結婚式は教会、七五三は神社、葬式はお寺でということはごくふつうに行われている。それは宗教としてではなく、それぞれ使い分けてイベント的にこなしている。そういう面では懐が広いというか、非常に大らかな国民である。
 古代からわが国には「八百万の神」といって、森羅万象に神の発現を認めるならわしがある。いわゆる「多神教の神」である。またこの神は仏教とも習合し、それぞれ矛盾なく信仰されてきた。このことが他の宗教を大らかに受け入れられる素地となってるのだと考えられる。
 しかし、このようなふるまいは一神教の人たちから見たら原理、原則のない「なんでもあり」の世界で、極めて節操のない所行としかうつらないのである。
 そのとおり、日本人は一つまちがえば節操がまるでなくなる危うい国民なのである。自分さえよければ式の詐欺・偽造・捏造(ねつぞう)は、いまに始まったものではない。数年前に起こった、大手業者が狂牛病対策事業の対象肉として輸入牛肉を国産と偽って業界団体に買い取らせるという事件。また、一流企業といわれる所が、鶏肉や豚肉を偽装するなど、消費者を欺く行為を平然と行う事案など、この種の組織ぐるみの事件が頻発してやまない。これは手違いとかミスなどというものではなく、明らかに故意に行われた犯罪である。そしてその組織のトップも、同僚も部下も、「みんなが黙っていれば大丈夫」という心算を共有して行われる類(たぐい)のものである。その昔には、外国から経済的な利益のみを追求する日本人を評して「エコノミック・アニマル」と揶揄されたが、その後汚名を返上した形跡は一向にない。
   - われわれ日本人は〝節操に危うい国民〟
                 であることをしかと自覚すべし -

五 恥の文化、日本
 武士は、武勇、信義、礼節、質素などとともに「廉恥」を重んじた。「廉恥を重んじ名利をはなれて義勇を励む」や「恥を知るものが義を守る」という武士道の教えがある。この「恥」の意識は、武士の心情に強力な自己コントロールの力としてはたらいた。
 アメリカの女性文化人類学者ルース・ベネディクトによって出版された『菊と刀』は、日本人と日本文化についての特質を論じた著作である。
 ベネディクトは、本書の中で日本文化の型を、欧米の「罪の文化」と対比して「恥の文化」だと断定した。両者の違いは、行為に対する規範的規制の源泉が、内なる自己(良心)にあるか、それとも自己の外側(世評とか知人からの嘲笑)にあるかに基づいているとする。
  要するに、西洋は、道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みにする社会だから「罪の文化」をもち、他方、日本の社会は、外面的強制力に基づいて善行を行うような「恥の文化」に属していると分析する。「罪の文化」では、悪い行いがたとえ人に知られなくてもみずから罪悪感にさいなまれる。しかし「恥の文化」では、人前で恥をかかないようにすることが道徳の原動力となる。モラルの根拠が内にあるか外にあるかの違いである。ことばを変えれば、「神との約束」と「世間様の目」の違いである。
 ベネディクトはこのように評価したが、たしかに、日本人の節操の危うさはどうもこのへんにありそうだ。日本人は、世間様の目がなかったら、あるいはみんなと一緒だったら、何でもやってしまいかねない無節操な面を持ち合わせている国民なのである。こういった日本人の性向を最も端的に言い表しているのが、あの、「赤信号みんなで渡れば怖くない」である。「旅の恥はかき捨て」もしかり。見知らぬ土地、見知らぬ人の中では、つい放埒三昧に陥ってしまいがちなのが日本人なのである。
 昔も今も変わらぬ同じ「恥の文化」の土壌にありながら、武士が意識していた恥と、現在のわれわれが感じる恥がどこでどう違うのか。
 武士の場合も世間の目を意識するのは当然である。しかし、「恥」の感覚に直接はたらきかけるのは、その行為が「美しいか醜いか」という美学的基準が厳然として存在していたことである。この「恥を知る」という仕方は、武士たる者は斯(か)くあらねばならないとする武士社会の倫理であり、わが国の「道」の思想を裏打ちするものであった。
 ところが今いう「恥」の感覚は、恥知らずの世間に合わせるという、非常にレベルの低い意識に陥った。それゆえ、みんなして恥知らずにふるまえるのである。
 昔の武士のように「ぶれない」、「ひるまない」しかも「群れない」生き方をするにはどうすればよいのか。
- その手がかりが〝武道〟にある -
つづく
平成28年9月26日

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Author:新宿区剣道連盟
「井蛙剣談」への思い

 「井の中の蛙大海を知らず」と自覚しつつ
「井の中は誰よりも知っている蛙」に成り代わり書き進めてまいります
つたなき指導の一環とお受け止めいただければ幸いです
               真砂 威

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