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スポーツの意義について

その八十四
スポーツの意義について

 先月、元プロ野球選手の清原が覚醒剤取締法違反容疑で現行犯逮捕されました。
 皆がうらやむ超甲子園球児からプロ野球選手へ。そして多くのライバルがひしめくプロ野球界で数々の大仕事をなし遂げた清原。なぜこのような人物が覚醒剤の虜に堕してしまったのでしょうか。

 そういえば同法違反で逮捕された体操の元オリンピック選手もいました。また薬物にかぎらず、先の大相撲の八百長問題、最近では巨人軍の現役選手による野球賭博など、その他一流といわれるスポーツ選手や元選手が起こした事件を数えれば枚挙にいとまがありません。

 剣道人とて、けっしてその例にもれるものではないことを肝に銘じつつ、スポーツとはいったい何なのか、を考えてみたいと思います。

 「スポーツの意義」は、と問えば、
心身の健全な発達
健康及び体力の保持増進
精神的な充足感の獲得
自律心その他の精神の涵養
他者を尊重しこれと協同する精神の育成
公正さと規律を尊ぶ態度や克己心を培う
実践的な思考力や判断力を育む
と、概ねこのような利点が挙げられます。
 そしてこれらは人格の形成に大きく影響を及ぼすとされています。
(「スポーツ基本法」前文参照)

 では、スポーツに長年取り組み、それぞれの世界で自己実現を果たしたと思われる人物が、なぜこのような反社会的な行動に向かってしまうのか。

 このことが解決できなければ、いくらスポーツの意義を声高に唱えたところで空疎感は否めません。

 以前、『剣道とは、なにか』(「3.身体の鍛練と健全な精神の問題」)において、「スポーツを実践することによって、体力が向上し情緒的な健康や道徳的な価値を増進させるということは一応理論的に実証されている」と申し上げました。

 その上で、「スポーツを勝利至上主義的に行い、頂点に立つことを最大の目的とする過度の競争体系の中においては、『健全な身体』と『健全な精神』の相関関係性は認められなくなる」また、「勝利至上主義に内包する排他性が倫理的にマイナス効果として現れ、ひとかどのスポーツマンと言われる人であっても、何らかの誘因によってその鍛え上げた精神や肉体や技術が、逆に社会的凶器となるおそれなきにしもあらず」と指摘しました。

 しかし、ここで問題としている薬物や八百長や賭博などの事件に関しては、直接個人の排他性に起因するものではありません。

 では、一個人の心の内面にある自律心とか克己心の欠如または脆弱さによるものと考えた方がよいのか…。

 いや、彼らこそ自己を律し克己心をもって厳しい競争社会を勝ち抜いて来た選手たちです。必ずや強い意志力を持ち合わせているはず。一概に精神性が欠如していたとか心の弱さによって誘惑に負けたというふうには片づけられる問題ではないと思われます。

 およそ競技スポーツの世界では当然のことですが、優勝劣敗の競争原理がはたらき、弱者が淘汰され強者が生き残る世界であります。
 少なくとも彼らはそのサバイバルレースを生き残った、いわば勝ち組の側にいた選手たちです。精神的に弱かろうはずがありません。
 では、なぜか。

 この場で筆者が指摘したいのは勝利至上主義に内在するもう一つの負の側面です。およそ競技スポーツは、対人競技であろうと競争または採点競技であろうと他者と比較の上に成り立っています。
 いわば相対の世界であります。

 その世界の中で勝ち組の側にいる選手は大きな存在価値を有します。また更に進歩しようと努力も重ねるでしょう。
 これら選手が努力を傾ける理由は、スキルを高めよりよい打率なり勝率なり得点やタイムなりをめざし、また「—大会優勝」「打倒—」など具体的目標を達成するために行われるわけです。

 そこで精神論、根性論ないまぜのなか確実に身心が鍛えられ技能が向上するはずであります。
 「身心鍛錬論」であれば、これを以て目的達成とすべしですが、競技の世界はここからはじまるわけです。
 
 彼らはその中にいて人に抜きん出る実績を収めたわけです。が、しかし、プロや高度な競技集団の中においては、「実績に免じて」と申しましょうか、成績優秀な選手には周りからあらゆる面において寛容の目で見守られることが多々あるわけです。たとえ本人の素行が良からぬ場合であっても…。

 また、だれしもチヤホヤ誉めそやされる場に身を置けば、他者への尊重や協同の精神また公正さや規律を尊ぶ態度など、スポーツの意義するところから離れがちとなることも否めません。これも一つの孤立です。

 そのような選手たちがひとたび成績不振に陥った場合、周りからの目線はシビアに変化します。
 成績が回復すればまた元どおりに戻るのでしょうが、それが克服不能あるいは慢性的な不振に陥った場合どのようになるのか(清原の場合は引退後の空虚感のようなものが巣くっていたと聞きますが)。先ほどの独り高い孤立とは真逆な孤立感にさいなまれることになりかねません。そういった頽廃の状況に孤絶すれば、何らかのきっかけが誘引となって良からぬことに手を染めてしまう、ということはあり得る話です。

 ここで筆者が彼らに問い糺したいことは、観念としての倫理や道徳の話ではなく、技能向上をめざす(或いはめざした)段階において、「自分の身心といかに向かい合ってきたか」ということです。

 勝利を至上とする比較競争の世界の中で力強く生き抜いてきたことは十二分に認めます、が、はたして技能向上をめざす過程において、「心の目をどれだけ自分の内側に向けてきたか」ということを問いたいのです。

 スポーツ音痴を自認する筆者ゆえ、他のスポーツの技能について論じることはままなりませんが、あらゆるスポーツや技芸においてそれぞれ技能向上の筋道を構え築くなかに、必ずや倫理や道徳といったものに通底する哲理が存在するものと信じるがゆえです。

- 自己の裡に相対を超えた身心の技法をいかにつくり上げるか -

これこそがスポーツの意義を具現せしめる核と考えるものです。

 このたびの清原事件は、スポーツの意義を改めて考えるよい機会となりました。

 また今年も桜の開花とともに選抜高校野球がはじまりました。晴れやかさの裏で、清原については一切口をつぐむ人たちの忸怩たる思いを察しつつ、この場をお借りして、野球人清原の更正を心より願うものです。

 さて、相対を超えた身心の技法ですが、次回は剣道について振り返ってみることといたしましょう。
つづく
平成28年3月22日
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新宿区剣道連盟

Author:新宿区剣道連盟
「井蛙剣談」への思い

 「井の中の蛙大海を知らず」と自覚しつつ
「井の中は誰よりも知っている蛙」に成り代わり書き進めてまいります
つたなき指導の一環とお受け止めいただければ幸いです
               真砂 威

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