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「国技」について 2

その八十三
「国技」について 2
〝国〟を冠すること
 国技にかぎらず、その国の特有あるい代表的なものを表すのに〝国〟を冠した言い方がよくされます。その象徴的なものに国旗、国歌があります。
 現在わが国では、国旗を日章旗(日の丸)、国歌を『君が代』と「国旗・国歌法」で規定され、法的立場が確立しています。そのほか「国花」は桜または菊、「国鳥」はキジということにはなっていますが、いずれも法的な公式性はありません。国技についてもまたしかりです。

 その国技として相撲が広く国民に認知されるようになったのは、相撲常設館の名称を国技館と名付けたことによるものであることは先にも述べました。
 国技館の竣工は明治42年(1909年)ですが、それまでわが国では国技という言葉そのものが一般的に使われてはいませんでした。
 前掲書『相撲、国技となる』では、

 <国技なる言葉が初めて使用されたのは、江戸時代の化政期に、隆盛した囲碁に対して使用された時であったという。明治期に入ってからの使用は、「国技館」が初めてだった。>

と記されています。
 それもそのはずです。国技という言い方をするのは国外と対比する意識があってのことでしょう。ですから、鎖国状態にあったわが国において昔から存在するものを、ことさら国技とあげつらう必要はなかったであろうことは想像に難くありません。

囲碁の起源は中国
 そこで面白いことに同書で、国技という言葉が初めて使用されたのは、「囲碁に対して使用された」としていますが、『ブリタニカ国際大百科事典』によると「囲碁」(「碁」)は、

<初めは古代中国の卜占(ぼくせん)から始まった。 …中略… 日本へは仏教伝来の頃朝鮮の外交使節から伝えられ,その後遣隋使,遣唐使らによって中国から直接技術輸入したこともあると考えられる。>

と載っており、紛れもなく大陸から伝来したものに違いありません。

 そこで同書をふり返ってみると、今までに国技という言葉を使用したのは囲碁と相撲の2つということになります。それぞれ発祥が中国とモンゴルなのですが、それらがなぜわが国で国技と名乗るに至ったのか、大いに疑問が残るところです。

 そういえば数年前、インターネット上などで「剣道の起源は日本ではなくて韓国である」という記述がしばしば見かけられ一時期問題視されたことがありました。

 その対応として全剣連は、「剣道に関する全剣連の見解」(All Japan Kendo Federation's Perspective of KENDO)を公式ホームページに載せ全世界に発信しました。↓
http://www.kendo.or.jp/kendo/origin/

 いま思えばですが、何事によらず発祥や起源といったことに関しては、この種の話は少なからずあるようです。

 とするならば、そこは『力士漂泊』のあとがき、「相撲が国技だなんて、小さい、小さい。ユーラシアにまたがる数千キロの空間と、十数世紀におよぶ時間が背後に横たわっているのが見えないか」の度量にならい、この話はここで打ち止めといたします。

「国技館」命名の裏話
 一般的に相撲常設館の命名者は板垣退助ということになっていますが、実際は相撲協会年寄に一任したものだそうです。
 その協議の中で一人の検査役が国技館の名を提案しました。この館名案は、常設館開館に向けて作られた*『初興行披露状』の文中にある「角力(すもう)は日本の国技」からヒントを得たものでありました。この提案に全員が賛成し、館名を国技館とすることが決まりました。

 この『初興行披露状』の文は、江見水蔭(すいいん)という小説家が作成しました。
 江見水蔭は小説家であるとともに、自宅に土俵を作り、自らが勧進元となって文士相撲を催すほどの好角家であったということです。

 相撲協会から初興行披露文の文章作成を依頼された江見は、ここぞとばかり推敲を重ね、インパクトの強いキャッチフレーズ「角力は日本の国技」をひねり出したものと考えられます。

 相撲常設館の設立について一番の旗振り役であった板垣退助ですが、実は国技館という名称には反対であったそうです。
 板垣は、明治42年6月2日の国技館の開館式で開館委員長を勤めますが、開館式が終わった後、この館名について次のようなコメントを残しています。

 <国技館なんて云ひ悪(にく)い六(むず)かしい名を附けたのは誠に拙者の不行き届きで今更栓(せん)なけれど、実は式辞言句中にある武育館とすれば、常設館の性質や目的も明判し、且(かつ)、俚耳(りじ)にも入り易いのに惜しい事をした。(東京朝日新聞、明治四十二年六月四日)>

 板垣としては、館名の決定を相撲協会年寄に一任した手前、彼らが決めてきた国技館という名前を自動的に了承せざるを得なかったようです。

 ところで板垣のコメントに「式辞言句中にある武育館」とありますが、その式辞の内容は次のようなものでありました。

 <我が角力協会は経営多年、今やその工(こう)を竣(おわ)り、これを国技館と命名し、ここに開館式を挙ぐ、それ角力は日本古来の国技にして、国民的娯楽たり。これをして社会の武育に裨益(ひえき)せしむる、これ本協会の責務なり。>

 ここでは板垣も『初興行披露状』の「角力は日本の国技」を引き合いに出しています。にもかかわらず、国技館という命名には反対であったのはなぜでしょう。
 
 板垣は式辞で、「社会の武育に裨益せしむる」と述べ、後のコメントでは、武育館と命名した方が常設館の性質や目的も明白でありかつ世間の聞こえもよいのに惜しいことをした、と悔しがっています。

 庶民派の政治家として国民から圧倒的な支持を受け、また無欲恬淡で有徳の士と評された板垣退助。そんな板垣の心持ちとして、国技館という事々しい名を称することに一種の面映ゆさを禁じ得なかったのではなかろうかと推察されます。

 国技館の名称は、板垣の酷評をよそに一般には響きのよい名称と受けとめられ、やがて名名称として定着していったのです。

 宮本徳蔵さんが『力士漂泊』を著した昭和60年(1985年)には角界にモンゴル人の姿はありません。それから30年、今や東西両横綱はじめモンゴル人力士が大相撲界を席巻、大きく国技を背負ってくれています。
つづく

*『初興行披露状』
<大角力常設館全く成り、来る五月初興行仕るに就いて、御披露申し上げます。(中略)。事新しく申し上ぐるも如何なれど抑(そもそ)も角力は日本の国技、歴代の朝廷之を奨励せられ、相撲節会の盛事は、尚武の気を養い来たり。年々此儀行われて、力士の面目のために一段の栄を加え来たりしも、中世廃れて、遺憾ながら今日に及んで居ります。>

 文中< >内は『相撲、国技となる』(著者:風見明、発行所:㈱大修館書店、平成14年(2002年)第1刷発行)から引用、また相撲と角力の両名併記も同書に準じた。

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新宿区剣道連盟

Author:新宿区剣道連盟
「井蛙剣談」への思い

 「井の中の蛙大海を知らず」と自覚しつつ
「井の中は誰よりも知っている蛙」に成り代わり書き進めてまいります
つたなき指導の一環とお受け止めいただければ幸いです
               真砂 威

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