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「国技」について

「国技」について
「国技」とは
 「剣道は国技なの?」との質問を受けることがよくあります。そんなとき「そりゃ当然だ!」と、答えかけて、何かすんなりと断言できないもどかしさがつきまといます。

 「国技」を『広辞苑』で調べると、「その国特有の技芸。一国の代表的な競技。日本の相撲など。」と記されています。
 ですから剣道は当然、国技と称して然るべきではありますが、何か胸を張って言えないものがあります。

 『広辞苑』に「日本の相撲など」と表しているにもかかわらず、相撲以外の種目が全く示されていないのは何故でしょう。また他の辞書を見ると、「日本では、相撲。」と断定しているものさえあります。

 剣道は日本の伝統文化であるにもかかわらず、なぜ自らを国技と名乗ることにためらうのか。
 長年このような得心がいかぬ思いを抱いておりましたが、最近これに答える書物を発見いたしました。
 その発端となるのが、今年の大相撲初場所で琴奨菊が優勝を果たしたことです。

相撲の発祥はモンゴル
 琴奨菊は、*日本出身力士として平成18年の栃東以来、みごと10年ぶりに幕内優勝を果たしましたが、その翌日の「産経新聞」(1月25日付)のコラム「産経抄」に次のような記事が載りました。

<「相撲が国技だなんて、小さい、小さい。ユーラシアにまたがる数千キロの空間と、十数世紀におよぶ時間が背後に横たわっているのが見えないか」。作家の宮本徳蔵さんは、『力士漂泊』のあとがきに書いている。宮本さんによると、2、3世紀ごろにモンゴル高原で生まれた相撲は、西へ東へと伝わっていく。日本の文献に初めてあらわれるのは、7世紀半ばの飛鳥時代である。>

と。
 早速、本書『力士漂泊』(著者:宮本徳蔵、発行所:㈱小沢書店)を求め内容を調べました。この書には「相撲のアルケオロジー」という副題がついております。アルケオロジーは、フランス語で「考古学」と訳されるそうです。

 では、考古学的にモンゴルを発祥とする相撲が、なぜ、わが国で国技と呼ばれるようになったのか、という疑問がふつふつと湧き上がってきます。

 そこで行き当たったのが次の一冊、『相撲、国技となる』(著者:風見明、発行所:㈱大修館書店、平成14年(2002年)第1刷発行)です。
 同書には、相撲が国技と呼ばれるようになった経緯が事細かく述べられていますので、その一端を紹介いたします。

相撲の受難
 時代は、明治期に入ったばかりの日本。新政府は文明開化を促進しますが、なんと、そこに相撲存亡の危機が降りかかります。相撲無用論・禁止論の発生です。

 同書では、

<鎖国していたために近代化に乗り遅れた日本は、明治維新後、西洋を手本として近代化を図ろうとして、西洋の制度や技術等の模倣は衣食住にも及んだ。このなかで、すべてのものの価値を、西洋の基準に照らし合わせて計るという傾向が出て来た。そして西洋にあるものはすべて良くて、正しく、文明的であり、日本に前からあるものは悪く、不正で、野蛮であり、否定すべきものだとする見方が広まった。西洋にない相撲はこうして槍玉に挙がったと考えられよう。>

と述べています。

 また、当時は裸体になっている人が市中で多く見受けられていたようです。これも日本が西洋から蔑みを受けた要素の一つです。
 同書では、「人力車の車夫、飛脚、人夫、大工等は、仕事中はふんどし一つまたはふんどしに上着だけという格好の人が多かった」と前置きした上で、

<悪い慣行なのにまだ禁止していないものに唯一相撲がある。文明国は腕力を卑しむから、相撲は野蛮で未開の国がすることである。相撲を禁止すれば国民あまねく腕力を卑しみ、知徳を尊ぶようになり>

云々と述べています。
 その時代背景として、旧幕府が1858年(安政5年)に米・蘭・露・仏の五5カ国との間に結んだ修好通商条約の改正交渉にありました。
 それら修好通商条約は、日本にとっては関税自主権がないことや、外国人は完全な治外法権を持つなど不平等なものでありました。

 維新政府が条約の改正を相手国側に強く求めたところ、それらの国々から「日本は近代国家でないから改正には応じられない」と突っぱねられます。

 こうしたことから維新政府は、条約改正の条件を整えるため、西洋から前近代的であると思われそうなものの排除が始まったと考えられます。

 このように排除の標的にとなった相撲ですが、相撲は江戸時代以来、芝居と並んで庶民が見て楽しむ娯楽の代表的存在であり、あらゆる階層の人々の生活に活気と潤いを与えてきました。
 そういった大衆基盤を持つ相撲を簡単に見捨てるわけにはいきません。一転、相撲は見直され次第に活況を取りもどしました。

相撲場の問題
 相撲が見直される過程において一番頭を悩ませたのは相撲場の問題でした。
 当時の相撲場は、興行が始まる寸前に造り、興行が終われば直ちに取り壊す、いわゆる「掛け小屋」と言われるものでした。別名「仮小屋」とも呼ばれ、雨が降ったら興行中止という不都合なものであったそうです。その後、テント張りの相撲場ができたりもしましたが、完全に雨風をしのげるものではなく、興行としての収入も安定しない状態でした。こういった相撲界の念願は、「常設館」の設立でした。

 自由民権運動の指導者で、反対派に短刀で刺され「板垣死すとも自由は死せず」と絶叫したと伝えられる板垣退助(1837年~1919年)は、大の好角家であり、また相撲界の目付役的存在として大きな影響力を持ち、大相撲常設館設立には自ら委員長を務めるなど深く関わりました。

 板垣は、掛け小屋が粗末な相撲場であることから、「こんなところで欧米の貴賓に相撲を見てもらうのは大変恥ずかしい」と言って常設館の設立を強く推し進めました。

「国技館」の命名
 大相撲常設館は2年弱の工期で明治42年5月に竣工しました。ドーム型の屋根を持つこの円形の相撲場は、当時東洋一大きな建物といわれました。
 そして、同年6月2日開館式の直前になって付けられた館名が「国技館」です。

 このように相撲は、その常設館が完成し「国技館」と命名されたことをもって、まさに〝国技となる〟のです。
 「国技館」、その命名こそが相撲に「国技」の名を冠し、しかも国技の呼び名を相撲が独占して憚らぬゆえんであります。
つづく

*「日本人力士ではなく、日本出身力士と書くのには理由がある。24年の夏場所で優勝した旭天鵬はモンゴル出身ではあるが、日本国籍を持つれっきとした日本人力士だったからだ」と同コラムに記されている。
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Author:新宿区剣道連盟
「井蛙剣談」への思い

 「井の中の蛙大海を知らず」と自覚しつつ
「井の中は誰よりも知っている蛙」に成り代わり書き進めてまいります
つたなき指導の一環とお受け止めいただければ幸いです
               真砂 威

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