最後の日本兵 小野田寛郎さん逝く

その五十九
最後の日本兵
小野田寛郎さん逝く
 
 フィリピン・ルバング島の山中で戦後も潜伏し、昭和49年(1974)まで30年間、戦い続けた元陸軍少尉、小野田寛郎(おのだひろお)氏が本年1月16日、肺炎のために東京都内の病院で亡くなられました。91歳でした。


 小野田少尉は、アメリカ軍が作った誤りだらけの命令書を爆撃機で散布され、皆がゾロゾロと投降するなか、3人の仲間とともに投降はせず、命令された通り戦い続けた。
 この島で10年、いや30年、一生でも生き続けなければならない戦略上の任務を受けていた。
 そして、アメリカ軍の軍事基地が目の前にあるルバング島から眺めている限りでは、平和など思いもよらぬ日々が続き、艦船が動き、戦闘機が飛び、戦略爆撃機が毎日のように目撃されるようになった。
 それは後に、朝鮮戦争やベトナム戦争であったとわかったが、これらの状況は司令部を出発するとき上官に説明された戦略に偶然にも一致していたこともあり、あくまで日本軍もいまだに戦っているとしか判断のしようがなかった。
 やがて仲間の1人は昭和25年(1950)に投降し、1人は昭和29年(1954)に戦死、そして最後の1人も昭和47年(1972)に銃で撃たれて亡くなる。
 しかし、その実際の敵はアメリカ軍ではなく、フィリピン空軍や警察軍の討伐に耐えて戦い続けていた、ということになる。
 昭和49年(1974)2月、青年探検家の鈴木紀夫さんと遭遇し、その後帰国した鈴木さんの報告にもとづき、当時の上官から直接現地で「作戦任務解除命令」が伝えられた。
 当時のマルコス大統領は、小野田少尉に「名誉ある比国兵士と同じ待遇を与える」の命令をくだした。そのため投降は形だけに終わり、武装は解除されずそのままになった。そして「過去の一切の罪は問わぬ」と加えられたため、フィリピン側の損害も伏せられた。
 更に、大統領からは「軍隊が駐屯している小さな島で30年戦い続けたことは、忠勇な軍人の鑑である」と讃えられ、マニラ空港を発つ時には日比両国国家と「ハッピーバースディ」を空軍音楽隊が吹奏して送ってくれた。


 以上は、*小野田寛郎氏著『君たち、どうする?』(新潮社 2004年)に記されている内容を要約したものです。

 ルバング島は、フィリピンのマニラ沖にある淡路島の半分くらいの、しかも密林の島ですが、よくこういった島で30年間も潜伏し戦いを続けてこら れたものです。

 その昭和49年当時、筆者は28歳、兵庫県警察の機動隊に勤務しておりました。職務柄、挙手の敬礼を日常としておりましたが、この任務解除命令を受ける時の小野田少尉の敬礼を見て、「すごいっ!」と強く感銘を受けた記憶が今も鮮明に甦ります。

 それから40年、いまだあれに勝る凜々しい敬礼を見たことはありません。
140316小野田さん敬礼

上の写真は『君たち、どうする?』所収のものです。

 51歳にして帰国がかないますが、小野田少尉の厳然とした存在は、平和と高度成長に慣れきった日本人に大きな衝撃を与えました。

 しかし、時代の隔絶による価値観の激変はあまりにも大きく、小野田さんは社会の反響を見て、自分の持つ考えがすでに世の中に受け入れられていないことを悟ります。

 かつては聖戦と煽った新聞が「侵略戦争だった」と書いていることを知って愕然とし、さらには政府の対応の建前と本音の落差にも悩まされます。

小野田さんは同書で、

 私にはそういった世相の変化を受け入れることは、死んでもできませんでした。それを認めることは、仲間を失いながら戦い続けた30年の過去を恥じて改めろと強制されているに等しかったからです。同じ思いで戦って散っていった2人のためにも、譲ることはできませんでした。

そして、

 ここには自分の居場所がないと感じ、虚脱状態で日々を過ごしました。マスコミの取材攻勢にもさらされて、人間不信にも陥りそうでした。

とその時の思いを語っています。

 せっかくもどってきた日本ですが、権力を笠に着て理不尽なことを迫ったりする人たちや、平和に酔いしれている国全体の雰囲気に居たたまれなくなり、帰還翌年の昭和50年(1975)、ブラジルに移住を決意します。

 ブラジルでは牧場の開拓と経営を手がけますが、移住して2年後に結婚した妻と相協力して、約1200ヘクタール(360万坪)ある原野を7年間で開拓します。

 農業に大切なのはなんといっても雨ですが、雨の周期を予測するのに、ルバング島での知識が役立ちました。そのおかげで周囲の人が感心するほど、旱魃による不作を躱すことができたのは、まさにジャングル生活の賜物でした。

と小野田さんは述べています。

 ブラジルでひととおりの成功を収めた後、思い至ったのは祖国の「子どもたちへの奉仕」です。
 自身のジャングル生活での経験を生かし、キャンプを通して青少年の育成に当たることを目的に「小野田自然塾」を昭和59年(1984)に設立します。

 子どもの本質である野性的な心を甦らせ、自然の中で生きる本来の感覚を取りもどすため、学校も家庭もすべて忘れさせて、縄文時代のような生活に子どもを放り込む。

 そこで、子どもが何か予想外のことに直面して困ったときには、ただ、「君たち、どうする?」と聞くだけ。

 「自分に最適な解決方法は自分で考えるのが最良で、そうすることで彼らの潜在能力が発揮される」というのが小野田さんの教育方法でした。
 
 以上、『君たち、どうする?』をもとに、できるだけ小野田さんの筆致を生かして一文を綴りました。

 皆さん、ご存じないかもしれませんが、小野田さんは剣道の有段者で、錬士五段という腕前でした。
 『文藝春秋』(平成26年3月号)「最後の帝国軍人小野田寛郎さんの遺言」では、小野田さんの〝自分を絶対に曲げない〟性格を表すエピソードとして、

 旧制海南中学では剣道部に所属していたが、あるとき、「優勝もできないヤツが」と小ばかにされたのが癪にさわり、「じゃ五月に試合があるから、県で勝てばいいんだろ」
 と啖呵を切ったという。負けん気の強い寛郎は勉強もせず、朝から晩まで剣道に打ち込み、ついに県の試合で個人でも団体でも優勝を果たした。

と記されています。

 くしくも全剣連『剣窓』昨年2月号の「剣筆」欄に執筆しておられますので、ここにその原稿を添付いたします。どうぞ味読ください。

140315小野田寛郎剣筆_剣窓mini

 小野田寛郎さんの「お別れ会」は、3月12日(水)午前11時から靖国神社啓照館においてしめやかにとり行われました。

 小野田さんがルバング島から帰還した日が、昭和49年3月12日ですから、この日はちょうど帰還40年目にあたる記念の日です。

 妻の小野田町枝さんと(財)小野田自然塾との連名の御礼文には、

 故人から、出征の時、戦地へ赴かれる将兵の方々が「靖国で会おう」の言葉で別れて行ったと聞き、その言葉にしたがって、本日のお別れ会が靖国神社で開催できたことは、故人にとりましても多くの戦友と再会を果たす事が出来て本望ではないかと思っております。

 青少年教育に力を尽くしてきた故人は、ルバング島での体験から「人はひとりでは生きられない。食べるもの、着るもの、あらゆるものは他人様あってこそ恵まれるものである」、「人は自然の一部であることを忘れてはいけない」、「生きる根本は自分にある。生きるためには自分で考え、行動する力がなければならない」、「すべての大人が、子どもたちに体当たりで向かわなければ日本の将来が危ぶまれる」など、力強く語っておりました。

と記されておりました。

小野田寛郎氏の遺影

戦争に行った人たちが歴史の舞台から消えようとしている今、私たちは、〝戦後の日本をささえたほとんどの人は元兵士だった〟ことに思いをいたす必要があると考えます。

 あらためて小野田寛郎さんのご逝去を悼み、心から哀悼の意を捧げるものです。
                               つづく

* 小野田寛郎氏略歴
 大正11年(1922)、和歌山県生まれ。昭和14年(1939)、旧制海南中学校卒業後、貿易商社に就職し中国・漢口(現武漢)に渡る。昭和19年(1944)1月、久留米第一予備士官学校に入学。同年9月、陸軍中野学校二俣分校に入校、12月にフィリピン戦線へ派遣される。以後30年間、作戦解除命令を受けることなく任務を遂行。昭和49年(1974)に冒険家の鈴木紀夫氏と遭遇し、日本に帰国。昭和50年(1975)春、ブラジルに渡り牧場の開拓と経営を開始。昭和59年(1984)、子どもたちのキャンプ「小野田自然塾」を開く。[『君たち、どうする?』(新潮社 2004年)より]

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 「井の中の蛙大海を知らず」と自覚しつつ
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               真砂 威

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