スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

平和への光明

その五十四

平和への光明

<はたして江戸随一の強者は>

 牟田文之助が武者修行に出た時代の江戸では、三大道場と呼ばれ隆盛をきわめた玄武館の千葉周作、練兵館の斎藤弥九郎、士学館の桃井春蔵、またそれに一つ加え四大道場とされた伊庭道場の伊庭軍兵衛、そして幕府講武所の頭取を任ずる男谷精一郎という錚々たる剣客が名を連ねています。



 文之助が剣術武者修行の旅をした嘉永6年(1853)のそれぞれの年齢は、千葉周作が61歳、斎藤弥九郎が57歳、桃井春蔵が30歳、伊庭軍兵衛が44歳、男谷精一郎が57歳です。



 ほぼ同じ時代を生きた5名の剣客ですが、果たしてこの中で誰が一番強いのか。誰しも気になるところですが、いずこにも明かにはされていません。それぞれが当代随一と評され、何のふしぎもなく共存しています。



 また、俗に「技は千葉、力は斎藤、位は桃井」と称され、三者それぞれが最強の剣士ともてはやされています。



 どうも、この時代の剣術の世界では、チャンピオンシップ的な頂点をつくらない社会を形成していたのではないかと思われます。



 - これも無用な対立を避けるための知恵であったのか -



 そこで、本書『剣術修行の旅日記』の牟田文之助が実際に立ち合った感想を抜き書きしてみます。

 ただ本書のもととなる『諸国廻歴日録』は、藩への報告という役目も負っているので、やや自分びいきに綴っていることを差し引いてお読みください。



 玄武館は、千葉周作が高齢のため、周作の次男で事実上の道場主である栄次郎と立ち合おうとするが、栄次郎はひたすら断り続け、のらりくらりと言い訳をして立ち合おうとしない。

 「尤流石之栄次郎行掛り尾逃かり候段腰貫極」(栄次郎は尻尾を巻いて逃げ出す始末で、腰抜けの極み)

 しかたなく100人以上が出席している門人のなかから選抜された12人と立ち合ったが、文之助はすべて自分のほうが七三か八二の割で勝っていた。

 「世上の評判とは大違いだ」「千葉もたいしたことはない」と痛罵しています。



 練兵館においては、老齢の斎藤弥九郎はほとんど道場に出ることなく、長男の新太郎(後に二代弥九郎)が事実上の道場主だった。

 新太郎と立ち合った評価は、「大ニ吉し、外は数人無レ限事也」(新太郎の技はすばらしいし、門弟にも数人、傑出した者がいる)と評価しています。



 士学館では、道場主の桃井春蔵は、あいにく体調がよくない、と断られ、高弟の上田馬之助らと立ち合い、「各勝利を得大慶ニ及候。(中略)余程面白有レ之事也」(自分のほうが勝っていたことに大いに満足している)と感想を述べています。



 伊庭道場では、6~70人ほどいた門人のなかから選抜した16人と立ち合った。できる人は2、3人いたが、それでも名人とまではいかない。技量は玄武館や士学館より劣ると述べており、また、道場主の軍兵衛と立ち合った様子は載っていません。



 最後に男谷道場ですが、男谷精一郎はすでに57歳だが、矍鑠としており、いまだに道場に出て門弟に稽古をつけ他流試合も決して断らなかったとのことです。

 そして本書では、



 「尤老人男谷様始手合致し、実ニ老人之稽古誠ニかんしん仕候」と、文之助も高齢の男谷の剣技には感心した。男谷には「様」づけをしているが『日録』に「様」が付いているのは男谷精一郎だけである。文之助が男谷には一目も二目も置いていたことがわかる。



と述べており、さすが幕府講武所の頭取、男谷精一郎の実力のほどが伝わってまいります。



<武士の連携>

 このように文之助は、名だたる剣客と立ち合っていますが、この嘉永6年(1853)はペリー来航の年です。その少し前にはアヘン戦争が起こり、イギリスは中国を半植民地化します。そして日本にも異国から次々と触手が伸ばされ、国中が危機感を募らせている情況下です。



 そして動乱期に突入し、血で血を洗う死闘が各地でくり広げられましたが、文之助が立ち合ったこれら剣客には、みじんも血生臭さが感じられません。



 また勝海舟、山岡鉄舟、西郷隆盛は江戸城の無血開城を成しました、が、かりに明治維新を革命とするならば、まさしくこの一事をもって〝無血革命〟と言わしめるものでしょう。



 本書『剣術修行の旅日記』では、



 剣術修行を媒介にして、藩の垣根を越えた武士の連携が生まれていた。武者修行の旅を通じて修行人は全国の諸藩に知己を得ていた。

 明治維新後、すみやかに日本という国家にまとまることができたのは、修行人たちが藩の垣根を打ち破り、地ならしをしていたのが大きいであろう。



また、



 全国の各地で文之助が立ち合い、親しく語らい、そして呑んだ若い藩士らが明治以降、その地で、あるいは東京や大阪に出て、それぞれの立場で日本の近代化に尽力したのである。



と述べています。



 短絡は許されませんが、安全に立ち合える剣術の競技システムこそが、修行人の藩を越えた自由で闊達な交流をはぐくみ、そして、その輪の広がりが意図せぬ力となって、平和的な変革という大きな結実をもたらすこととなった、と思うものです。



 剣道平和原理主義に生きる筆者にとって、一筋の光明を見出した気がします。

つづく


スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

新宿区剣道連盟

Author:新宿区剣道連盟
「井蛙剣談」への思い

 「井の中の蛙大海を知らず」と自覚しつつ
「井の中は誰よりも知っている蛙」に成り代わり書き進めてまいります
つたなき指導の一環とお受け止めいただければ幸いです
               真砂 威

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。