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武士道へのトラウマ

その五十二

武士道へのトラウマ


 セオドア・ルーズベルト米大統領は、新渡戸稲造の『武士道』を読み、はじめて武士道というものを知ります。そして武士道の研究にのめり込みますが、武士道の理解を深めるには武道の修養が不可欠、ということで柔道を習いはじめます。

 このことについて同書『明治三十七年のインテリジェンス外交』では、金子堅太郎は、

《ついには官邸で柔道まで稽古するに至りました。今の海軍大将の竹下勇という人は、当時は公使館付の中佐でしたが、大統領に柔道の型を教えた指南役です。その後、とうとう日本から畳を取り寄せ、柔道の先生を呼んで、官邸の一部屋に畳みを敷いて、そこで柔道着を着て稽古をしました。そこまで、いわば日本にかぶれた、よく言えば日本にすっかり感化されたのでした。》

と述べた、としています。

 ルーズベルトの親日ぶりをまのあたりにするようです。

 しかし、ルーズベルトが金子に投げかけた箴言は、ぴったりと的中します。二人の願いむなしく、ついに日米が戦火を交えることとなります。

 その40年前、日露が開戦するや金子堅太郎は、伊藤博文の命を受けて渡米し、巧みな会話術と旺盛な行動力をもって、ルーズベルト大統領と米国の世論を日本のもとに引き寄せ、戦争の早期終結に大きな功績をあげました。

 が、日米開戦が決まった、この時、いったい金子堅太郎は、どのような情況におかれていたのでしょう。

 同書では、

《日露戦争から約四〇年後、今度は日米が太平洋戦争で激突した。日米協会会長であり、親米派の巨頭とみられていた金子の自宅、葉山の別荘の周辺は憲兵が監視し、本人も「この戦争は必ず負ける」と予言していたといわれている。

 太平洋戦争中の昭和十七(一九四二)年五月、金子は八九歳で亡くなったが、長文の追悼記事がニューヨーク・タイムズ紙の死亡欄トップに掲載された。「ルーズベルト大統領の友人」「日米間の友好を説いた平和の唱道者」と最大の賛辞が呈されたのである。》

 かつての功績者に対して監視の目を光らせる側と、敵対国といえども偉人の死をしずかに悼む国。なんだか、戦う前に勝敗が決していた、という思いを強くさせられます。

 そして、金子の予言どおり、日本は完敗いたします。

 戦後、アメリカの占領政策は、あれだけ賞賛してやまなかった武士道をよそに、それどころか日本の伝統を完全に否定するものでした。
 
 アメリカの占領政策については、すでに幾度か取りあげていますのでここでは省略いたします。(その十二、二十一、二十二、二十三、四十九参照)

 戦前・戦中において、あれだけ唱道されてきた武道、武士道ですが、すっかり鳴りをひそめます。

 また、武道という言葉は教育上使用が認められず、新たに「格技」という名称を用い、柔道や剣道などの総称とします。

 武士道もしかりで、「軍国主義」と同義にあつかわれ、『葉隠』(山本常朝口述)などは禁書扱いにされるほどでした。


 そして、それとは反対に、一部の研究者から、「キリスト教を武士の生き様に投射したもので、日本古来の武士道とはつながらない」などと悪しざまに指摘された、新渡戸稲造の『武士道』だけが生き残りました。

 ですから戦後、武士道に関する書物といえば、まず新渡戸『武士道』が挙げられたという現象は、この理由によるものです。

 よく、「一億総懺悔」という言われ方がされますが、まさしくそのとおりで、居丈高の様から急転直下、戦後、日本人の思想は青菜に塩の状態に陥ります。

 そしてそれは講和条約が発効し、日本の独立が回復した後もずっと引きずったまま、そして現在に至っています。

 これは戦前の、肩で風を切る高慢ちき武士道の揺り返し、すなわち、武士道へのトラウマ、ではないかと思うわけです。

 ひるがえって筆者は、平成5年(1993)から平成19年(2007)まで警察大学校で剣道の指導を担当しておりました。そしてその間において、警察武道(柔道・剣道)こそ武士道を体現するものであるとの信条を強くもって指導に当たりました。

 そのことについては、その三十四「剣道とは、なにか④」[警察倫理の確立 -主として剣道の修錬を通じて-「6.伝統文化として見た武道の倫理的価値」]を今一度ご覧ください。

 しかし14年間にわたる警大時代に、一度たりとも露わに「武士道」という言葉を使ったことはありません。

 いや実際は、使いづらかった、というのが本音です。

 公の場で、「武道訓練に励むことによって武士道精神を培う」などと口にすれば、なんとなく危うさのようなものが漂う感じで、なかなか使えるものではありません。

 なんとか武道と武士道を直結させ、なおかつ違和感のない表現の仕方はないものかと考えたあげく、浮かび上がったのが次の一行です。

 -警察では、敢えて武士道を唱えることなく、鋭意武道訓練に励むことによって武士道的な精神を培う-

 「武士道を唱えることなく」「武士道的な精神」と、オブラートに包むように、武道にからめて武士道を2回も盛り込みました。この表現の仕方は、今も適切であったと思っております。

 そういう折も折、平成16年(2004)の冬、自衛隊がイラク復興派遣部隊としてイラクに派遣されますが、その部隊が出発する際の隊長、番匠幸一郎一等陸佐(当時)の挨拶がなかなか気の利いたものでした。

 それは次のようなものです。

 -日本人らしく誠実に、心をこめ、武士道の国の自衛官にふさわしく、規律正しく、堂々と取り組む-

 非常に賢明ないい方でありました。これを、「われわれ自衛官は武士道精神をもって」などと言おうものなら、いっぺんに話が胡散臭くなり、かえって派遣目的も武士道をも貶めることになってしまいかねません。

 その後も、「武士道の後継者として」という表現を用いた番匠幸一郎さんの一文を拝見した記憶があります。番匠さんの工夫の跡がうかがえます。
 
 警察官や自衛官は、今サムライといわれる存在であるがゆえ、かえって武士道という語の使い方には注意をはらう必要があると考えます。

 時代の移り変わりとともに矯めつ眇めつ見直されつつある武士道ですが、かつてのように紋切型に「武士道」「武士道」…と言葉だけが、わが物顔に独り歩きしないよう、これからも十分に気をつけなければなりません。

つづく


「井蛙剣談」への思い

 この綴りを「井蛙剣談(せいあけんだん)」と名付けたのは、古く頓阿(とんあ)が著した「井蛙抄」をもじってのことです。

 「井の中の蛙大海を知らず」という自嘲を込めつつも、「井の中は誰より知っている蛙」になりすまし書き進めたいと思います。

 ペンネームも頓阿をもじって「頓真」と名付けさせていただきます。

 感想をお寄せいただければ幸いです。

真砂 威



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プロフィール

新宿区剣道連盟

Author:新宿区剣道連盟
「井蛙剣談」への思い

 「井の中の蛙大海を知らず」と自覚しつつ
「井の中は誰よりも知っている蛙」に成り代わり書き進めてまいります
つたなき指導の一環とお受け止めいただければ幸いです
               真砂 威

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