竹刀の長さについて

その四十二

竹刀の長さについて

前回は、「大英博物館所蔵の竹刀」の写真を紹介いたしました。2本写っており、1本は明治3年(1870)に同博物館に寄贈されたものであり、もう1本は昭和3年(1928)に英国に持ち帰られたものです。

 いま一度、写真をご覧ください。

大英博物館所蔵の竹刀

 二つの竹刀の長さですが、上の明治3年の竹刀が四尺八寸(145.4cm)で、下の昭和3年のものが三尺八寸五分(116.7cm)です。


 昭和3年のものは現在われわれが使っている竹刀とほぼ同じ長さですが、明治3年の竹刀は30cmほど長い。この長さの違いをどのように考えらたらいいでしょうか。

 使用者の好みによるものか、それともその時代の流行によるものでしょうか。


 このとことについて井蛙の管見を述べさせていただきます。


 徳川幕府は、長年にわたり鎖国政策を敷いていましたが、江戸時代後期になると列強諸国からの開国要求が次第に強まって参ります。


 折から起こったアヘン戦争(1840~42)は、平和を安逸していた鎖国日本に大きな警鐘を鳴らしました。


 そして嘉永6年(1853)、ペリー来航です。


 日本国内は激しく思想が対立し、動乱の嵐が国中を吹き荒れます。その時の国情を巧みに言い表した狂歌に次のようなものがあります。


泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず


上喜撰はお茶の銘柄「喜撰」の上製という意味で、目覚ましに効能があるお茶ですが、たった四杯飲んだだけで夜も眠れないということに喩え、上喜撰を「蒸気船」、四杯をペリー艦隊「四隻」に掛けて、右往左往する武士社会を揶揄したものです。

 また次のようなものも、

武具・馬具屋、アメリカ様とそっと言い


国をあげての騒乱に刀剣や甲冑、馬具などを商う店がにわかに繁盛し、武士社会とは裏腹に、そっと〝アメリカ様〟と手を合わせる商人の心持ちを歌ったものです。


 外圧に刺激された江戸幕府は、武術振興のため*講武所を創設し、旗本・御家人に武術を習得させるための講習所としました。


 講武所の教授陣は、門閥にこだわらず実力主義で登用し、剣術師範役筆頭に*男谷精一郎があたるほか*榊原鍵吉、*桃井春蔵らが師範となりました。名門である新陰流の柳生家や小野派一刀流の小野家からは採用しませんでした。

 一方、このような世情を反映して国内では武術修行の意識が高まり、武者修行も盛んに行われるようになりました。

 そんななか武者修行者に筑後国柳河藩士の大石進という剣客がいました。

 大石は、身長が七尺(2m12cm)といわれる大男で、五尺三寸(160.6cm)の長さの竹刀を使いました。大石は、大石神影流の創始者で槍術も嗜んでおり、大男の長竹刀から繰り出される片手突きは壮絶なもので、江戸の高名な師範たちを次々とうち破ったといわれています。

 江戸の各道場では、大石進の来訪に震撼したとのことです。


 *千葉周作は、大石進の突きを防ぐために四斗樽の蓋を竹刀の鍔に使用して戦い、かろうじて引き分けたという逸話が残っています。


 このようなことで江戸では長竹刀が大流行します。ですから写真のような四尺八寸の竹刀があっても別に不思議なことではありません。


 そこで講武所では「規則覚書」で、「撓は柄共すべて長さ曲尺にて三尺八寸より長きは相成らず」と定めました。


 なぜ、三尺八寸と定めたのか。


 剣術師範役筆頭の男谷精一郎が、一番長い五尺三寸(大石進の竹刀)と一番短かった二尺三寸の竹刀の長さを足して2で割った、と、まことしやかに言われていますが、真偽のほどはわかりません。

 こういった決め方は非常に日本的ではありますが、得物を等しくしようとする発想は西洋的でもあります。

 ここで決められた竹刀の長さが今日まで受け継がれて来ているわけです。


 戦前の武道の統括団体であった「大日本武徳会」では、明治40年(1907)年の「剣術講習規程」で「竹刀は三尺八寸を度とする。但し躯幹の長短等により幾分伸縮することを妨げず」と定めました


 このことにより三尺八寸が定寸化しました。


 現在全剣連では、一般男子の竹刀の長さを「120センチメートル以下」と定めています。三尺九寸強ですが、これは昭和13年(1938)の学生大会の試合規定で、「竹刀の長さは三尺九寸以内…」との定めが基になっていると考えられます。


 戦後は、旧学生剣道連盟関係者が中心となって全剣連を組織した関係上、定寸が三尺九寸となったと考えられます。


 なかには短い竹刀をつかう流派があったり、また戦前の一時期において「三尺六寸以内」と定めた試合もありましたが、このことについてはここでは言及いたしません。つづく

*

以下『広辞苑』より


講武所
幕末、旗本・御家人に砲術・槍術・剣術・弓術を習得させるために設けた講習所。1854年(安政1)講武場として発足。56年築地鉄砲洲に正式開設。その後神田小川町に移す。66年(慶応2)陸軍所に合併吸収。


男谷精一郎
江戸後期の剣客。幕臣。名は信友。直心影流などの達人。講武所頭取兼剣術師範役。門下に島田虎之助・榊原鍵吉らが出た。後世、剣聖と呼ばれる。(1798~1864)


榊原鍵吉
幕末・明治の剣客。直心影流の達人。幕臣。名は友善。男谷精一郎に学び、講武所剣術教授方。維新後、撃剣興行・天覧試合・兜試斬で名を得た。(1830~1894)


桃井春蔵
幕末の剣客。名は直正。沼津藩士の家に生れ、鏡新明智流士学館に入門。4代目を継ぎ、江戸一流の名声を得た。のち幕府講武所で指導。(1825~1885)


千葉周作
幕末の剣客。北辰一刀流の祖。陸前の人。中西派一刀流などを学び、江戸に出て玄武館を開き多くの入門者を集めた(1794~1855)。
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「井の中は誰よりも知っている蛙」に成り代わり書き進めてまいります
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               真砂 威

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