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剣道とは、なにか⑤

井蛙剣談 その三十五

剣道とは、なにか⑤

 「その三十一」から、拙論『警察倫理の確立 -主として剣道の修錬を通じて-』(昭和59年9月13日)中の「剣道の倫理的意義について」の抜粋を『剣道とは、なにか』という題名でご紹介していますが、今回5回をもってこのシリーズは終わります。

 前号までの項目

1.はじめに

2.剣道とスポーツ

3.身体の鍛練と健全な精神の問題

4.技術の美について

5.美と倫理

6.伝統文化として見た武道の倫理的価値

7.現代剣道の倫理的価値

 に続きます。

 毎回言い訳を申しておりますが、当時、37歳の警察官、剣道指導者の卵であった時代の書生論です、どうか手心を加えてお読みください。

*

8.試合について倫理的考察

 「3.身体の鍛練と健全な精神の問題」のところで、スポーツの目的が勝利至上主義になると倫理的にマイナス現象として現れると述べた。「何が何でも勝つ」という気持ちが排他主義を誘発するからである。それは剣道の試合においても例外ではない。

 ─ では、果たして勝利志向を超えて、小論で述べる剣道観をもって試合に臨むことができるのか ─

筆者はこの点について常々次のように考えている。

 学問の目的は、決して試験で良い成績をとることではない。学問の目的は、その学習、研究した知識や手法をもって世のため人のため役立つことである。

 では、剣道の目的はいかに。全日本剣道連盟では昭和50年に、『剣道の理念』と『剣道修錬の心構え』を制定した。『剣道の理念』は「人間形成の道」を掲げ、『剣道修錬の心構え』では「人類の平和繁栄に寄与」を謳っている。

 大同小異、つまるところ学問も剣道も大目的において変わるところはない。

 そうすれば、試験または試合の位置づけをどのように考えるか。試験または試合は、それぞれの目的を達成するための「手段」である。試合・試験の「試」が現すように、試験は学習の成果を試し、試合は修錬の成果を試す手段である。

 であるからして、決して試験だけのための学問であってはならないし、同様に試合だけのための剣道であってはならない。

 『剣道の理念』『剣道修錬の心構え』をないがしろにし、勝利至上にひた走る剣道の競技者がいるとするならば、先に述べた、「排他」へ傾くことは避けられない。

 よく「試合巧者」という言葉が肯定的な意味で使われるが、筆者にとってこの言葉の響きは「点取り虫」の比喩としてしか聞こえてこない。

 次に有効打突の判定であるが、「剣道試合規則」には「第17条 有効打実は、充実した気勢、適法な姿勢をもって竹刀の打突部で打突部位を正確に打突したものとする」となっている。<註1>

 これが実に曖昧で、「充実した気勢」はともかくとして、「適法な姿勢」というものを明確かつ具体的に説明できるものではない。

 あらゆる競技スポーツの世界で、このような不明確な得点基準を定めているものはまずないであろう。この点が剣道試合の判定に少なからず世の批判を受けている原因となっているのではないだろうか。

 しかしながら筆者は、その〝曖昧さ〟が剣道のよさであり、言うに言われぬところが文化としての価値を高め、また精神的裏付けとなっていると考える。

 前出の中林信二氏の論文(『日本文化としての武道 -その技術観と人間観-』)でも次のように述べている。

[技を実現してゆく経過の中で、運動が美的規範によって拘束される。技は形が正しく、「色、艶、装」といった美しさが備わらなければならないとする日本人の独特の美意識がある。これは活発な力動性を持った機能美ではなく、機能を形式の中に押し込め、さりげない動きの中に無限の力を秘めつつ、素朴でかすかに表出される所に美を感じるという抑制の美的規範がはたらいている。したがって、修行によって技が習熟すれば、無駄な力や動きがなくなり、すっきりした運動になって現れるという運動の簡潔化がある。そしてこの簡潔性の終極は、外見上運動として現れない「無」に至るという志向性を持つ]

 このように剣道の審判は、打突の部位や強度といった断片の現象を機械的に判定することでよしとするものではない。剣道の有効打突は、審判員が長年の修行により積み上げた経験則と審美眼をもって「決まった」と、心に響いた場合のみ一本と判定されるべきものである。

 また剣道の有効打突は、先ほどの要件の「打突部位への打突」が先に立つのではなく、決めの「かたち」を体現した上での打突をもって有効と判定されるものである。

 つまり「適法な姿勢」とは、「かたちの体現」であると考える。

 中林氏が言う〝運動が美的規範によって拘束され〟〝形が正しく〟〝機能を形式の中に押し込め〟が即ち「適法な姿勢」にほかならない。

 そして、「美的規範」である「かたちを体現」しようとする営みこそが、他の競技スポーツよりも倫理的であると考えるゆえんである。

 ヨーロッパ剣道連盟会長のローベルト・サンドル伯爵は、「私が剣道に求めること -フェンシングと対比して-」と題した論文で次のように述べている。<註2>


[西洋のフェンシングは、電気のコードとランプそしてスポーツを行う場所でのみ通用するが、真実性のない架空の試合状況と規則などのお陰で人工的なものになってしまいました。フェンシングが日常生活の苦難にむかって修行する者を育てあげるものだとしたら、技術は真実性がなければなりません。今のようなあり方ではフェンシング場の壁を一歩出たら何の効力もなくなってしまいます。他の言葉で言い換えれば、それは真の戦いに対しての包括的な修業に欠けてます。人々は実際的な状態のもとで技術を修得しなければならないという精神的な要求から包括的な修業を求めます。しかし、残念なことに、西洋の今日のフェンシングは、このような真実性を失ってしまいました。そして幸いなことに日本の剣道の中にそれがまだ残っているのです。]


このように日本の剣道に大きな望みを託している。

 いくら時代を積み重ねた伝統文化といえども、勝敗の合理性を求めるがゆえ、ひとたび機械判定に預けたならば、再び往時の審判方法に戻ることは不可能といえる。

 今のフェンシングがランプ表示による判定制から、再び剣道のように生身の審判員が総合的に判定する方式に戻ることは永遠にないであろう。

 剣道はフェンシングを他山の石とし、伝統文化としてのゆるぎない地歩を国内外において確立しなければならない。

<註1> 平成7年に規則改正となり、現在は「剣道試合・審判規則」「第12条 有効打突は、充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるものとする。」となっています。

<註2> ローベルト・サンドル伯爵は、当時のヨーロッパ剣道連盟会長です。この剣道とフェンシングの対比は、時代を越え、現在なお色濃く剣技の競技化について問題を投げかけるものです。

9.おわりに

 警察は社会正義の実現という崇高な使命を負っている。また、警察官の業務の多くは一般市民とじかに接触して行われる関係上、他の公務員より高度な倫理性が要求される。

 警察における武道訓練は、警察官の適正な実力行使を期するため必要不可欠なものであることはもちろんであるが、一方、倫理教育の面においても重要な役割を担うものであると確信する。

 以上、武道ことに剣道の倫理的意義について述べた。各々の警察官は、国家及び国民に対する忠誠心を根底におき、公私にわたり倫理的生活を営まなければならない。

(警察大学校 術科指導者養成科 第19期 兵庫県 真砂 威)
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Author:新宿区剣道連盟
「井蛙剣談」への思い

 「井の中の蛙大海を知らず」と自覚しつつ
「井の中は誰よりも知っている蛙」に成り代わり書き進めてまいります
つたなき指導の一環とお受け止めいただければ幸いです
               真砂 威

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