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三本勝負について

その二十六
三本勝負について

 前回は、城西五区大会について述べさせていただきました。「真の三本勝負」-城西五区大会を観戦して
http://shinjukukendo.blog105.fc2.com/blog-entry-25.html 参照。

 「3分」という非常に短い試合時間であるにもかかわらず、「引き分け」が少なく、それどころか勝負のついた試合においても、「一本勝」よりも時間内に二本取得する試合の方が多いという結果を見ての賞賛でした。
 その上で、「一本取ろうが取るまいが、また、自己のチームが優位であろうがなかろうが、守りに専心することなく、尋常に戦う試合が本来の三本勝負といえます」と付け加えました。

 しかし皆さん方の中には、真剣勝負を由来とするなら、「三本勝負」じたいが〝本来〟と言えないのでは?、と、素朴な疑問を投げかける方がおられると思います。
 〝一撃必殺〟と言われるように、有効打突が一撃加えられた時点で「勝負あり」ゆえに、「一本勝負」でしかるべしだ、と。

 そのとおりです!
 では、なぜ、今のような三本勝負となったのでしょう。
 その疑問にお答えすべく、ちょっと剣道試合の歴史を繙いてみましょう。

 幕末以前の剣道試合は、規程として明文化されておらず、試合の勝敗は高段者の検証もしくは自己審判による暗黙の審判法が長く続いておりました。
 明文化された最初の試合審判規則は、明治初期に行われた*撃剣興行の『概略仕法』であると言われています。

 その『概略仕法』によると、「一試合三番勝負」と規定されております。
 当時の考え方は、先ほどの指摘にあったように、あくまで「勝負」は「一本」で、有効打突の一撃が加えられた時点で「勝負あり」なのです。

 で、「一試合三番勝負」というのは、一試合にその勝負を三番(3回)行い、先に二番勝った者を勝ちとするものです。
 「うむぅ、結局、三本勝負と同じじゃないか」と思われるかもしれませんが、勝負観において大きく現在と異なります。

 と申しますのは、もともと剣道の試合は「時間制」といった考え方はなく、勝敗が決するまで行うものでした。ですから、この「一試合三番勝負」をかみ砕いて現代風に言いますと〝時間無制限の一本勝負を3回行う〟というものです。

 またなぜ「三番」行うのかといえば、皆さん方もよくご承知のとおり、剣道の試合においては、〝まぐれ当たり〟が少なからずあります。一番勝負だと、いきおいまぐれで決着がついてしまう場合がありますが、三番勝負で行えば、極力偶然性を廃することができるというものです。

 この「三番勝負」が「三本勝負」へと移行し、現在では一般的な試合方法となっています。それでも時間無制限の三本勝負を行えば、『概略仕法』の「一試合三番勝負」と同じ内容の試合が期待できるわけですが、大会運営を考えるとなかなかそうはいかないようです。

 ともかく、前の城西五区大会の試合のように、「一試合三番勝負」の精神を今に活かしたいものです。

 ちなみに撃剣興行は、明治6年〔1873年〕にはじまりますが、その『概略仕法』では、試合場を「中央三間に四間の板の間」(5.45m×7.27m)、竹刀を「竹刀之儀は三尺八寸に相定候」と定めています。
 その他の定めで興味深いのは、「双方私論不発様仕度事」や「およそ場に登る者、己の長きを説き、人の短を揚げるを禁ず。朋党の門を開き闘争の釁(きん)をなすを戒むるなり」と倫理条項も設けられており、時代は変われどいつの世も……、と思うしだいです。
 
 ともあれ、『概略仕法』の「三番勝負」を三本勝負とみるとして、過去に「一本勝負」を積極的に採り入れていた時代がありました。
 福島大学教授の中村民雄氏は、その編著『史料 近代剣道史』で次のように述べています。

[三本勝負の形式が一本勝負に変更されたのは、昭和十四年三月改正の「大日本武徳會劍道試合審判規程」においてである。さらに、同年六月二十七日、「凡ての競技は一本勝負が妥当」との持論を抱く石黒文部次官が岩原体育課長にその調査・研究を命じたことにより、一段とその方向性を強めていった。しかし、翌昭和十五年六月に開催された皇紀二千六百年奉祝昭和天覧試合では、三本勝負で争われており、武徳会の審判規程が「一本勝負」となったからといって、すべての試合も即一本勝負に統一されたわけではなく、武道の戦技化と歩調をあわせて一本勝負の形式が徐々に採用されていったのである。]

 このように剣道の「戦技化」とともに「一本勝負」が採り入れられます。
 そこで上文と比較し注意すべきは、昭和14年7月には、アメリカから「日米通商航海条約」の破棄通告を受け、翌昭和15年9月には、「日独伊三国同盟」が調印され、同年10月には「大政翼賛会」が発足し、そして昭和16年12月に「太平洋戦争」に突入する、という動かぬ事実があるということです。
 その二十三・二十四の「心すべきこと」でも申しましたが、今後においても剣道がきな臭い方向で推し進められることについては、くれぐれも用心すべきであります。
つづく

* 撃剣興行
 幕末、維新の動乱期に活躍した多くの武術家は、廃藩置県の断行、脱刀令により、ほとんどの者が解雇された。直心影流の達人で講武所の教授方であった榊原鍵吉は、貧苦に喘いでいた武術家を救済するために、政府に撃剣の興行を願い出る。撃剣興行は瞬く間に盛況を博すが、やがて下火となる。


「井蛙剣談」への思い
 この綴りを「井蛙剣談」と名付けたのは、古く頓阿が著した「井蛙抄」をもじってのことです。 「井の中の蛙大海を知らず」という自嘲を込めつつも、「井の中は誰より知っている蛙」になりすまして書き進めたいと思います。頓真

井蛙抄(せいあしょう)
歌学書。頓阿(とんあ)著。6巻。1360~64年(延文5~貞治3)頃成る。古代・中世の歌論書の所説を集成し、さらに師二条為世からの聞書や当時の歌壇の逸話を集めたもの。(「広辞苑」より)
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Author:新宿区剣道連盟
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 「井の中の蛙大海を知らず」と自覚しつつ
「井の中は誰よりも知っている蛙」に成り代わり書き進めてまいります
つたなき指導の一環とお受け止めいただければ幸いです
               真砂 威

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