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万理一空 - 下 -

井蛙剣談 その十五

水之巻

水之巻は、「水を根幹として、心が水になること。水は方円の器に随い、一滴一滴の水が流れ込んで大海となる。この水のような青々とした清き心をもって当流のことをこの巻に書き表す。」として武蔵の起こした二天一流の太刀筋、剣術の大略を記述しています。
 ここでは水之巻の締めくくりについて簡約を試みます。
 [兵法において太刀を取って、人に勝つことを習得するには、まづ五つ構え(上段、中段、下段、右脇、左脇の構え)を理解すること。太刀の道を覚えることにより身体全体が自由になり、心のはたらきが機敏となり道の拍子を知り、ひとりでに太刀の使い方も冴えて、身も足も思うがままに円滑に動き、成り行きに順い、一人に勝ち、二人に勝ち、そして兵法の善し悪しがわかる腕前になる。… 千里の道もひと足ずつ進むこと。今日は昨日の自分に勝ち、明日は下手に勝ち、その後は上手に勝つと思い … 剣術の智力によって、多人数あるいは一対一による兵法の道理を体得しなければならない。千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とすること。]

 よく[千鍛万練]と書かれた旗や手拭いを目にしますが、これも武蔵の「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とする」から取った言葉といわれています。
 さて、この巻のキーワードは「太刀の道」です。この太刀の道は、『五輪書』の随所に「太刀筋」「刃棟の道」という表現であらわれています。太刀の通る道筋のことで、太刀はどのようにして振るべきかということを説き、太刀の上げ下げを「道の力」によって行うことを強調しています。
 ということをもって、この巻における万理一空のあらましを〝太刀の道を覚え、剣術の智力によって兵法の道理を体得する〟とします。

火之巻

 火之巻は、戦いのことを火になぞらえで書き表しています。その冒頭と締めくくりの簡約を紹介いたします。
[まず世間の人たちは兵法の利ということについて、末梢的な技巧のみに走って、手首より先の利を知り、あるいは扇子を使うように肘より先の小手先の技前にて勝負を論じ、又は竹刀稽古において少しでも速く当てることに味をしめ、手わざ足わざを頼みとして、小器用に速さを求めることを専らにしている。
 我が兵法においては、数度の勝負に一命をかけて打ち合い、生死を分ける境涯において刀の道をおぼえ、敵が打ちかかってくる太刀の強弱を知り、刀の太刀筋を会得し、… 朝鍛夕練し十分修業を積んだ後は、ひとりでに身動きの自由を得て、自ずから特殊な能力が備わる、自由自在で超人的な不思議な力、これが兵として法を行う境地である。]

[我は若い時より、兵法の道に心をかけて、剣術一通りのことにも鍛錬し、様々な経験を積み、他の色々な流派も尋ね見たが、ある時には口先だけのうまい講釈でごまかし、またある時には見映えのよい技をこれ見よがしにひけらかすが、それらは一つも実の心があるといえない。このような手八丁口八丁の華やかなる剣術は、兵法の道の病弊となって、後々までも失せがたく、兵法の直道を世の中に朽ちさせ、この道の廃る原因となる。剣術は実の道によって、敵と戦って勝つことに他ならない。兵法の智力を得て、正しい道を践み行うことによって勝つものである。]

 この巻における万理一空のあらましを〝太刀筋と兵法の智力によって正しい道を践み行う〟とします。
 ところで前の水之巻においては〝太刀の道を覚え、剣術の智力によって兵法の道理を体得する〟としましたが、つまるところ〝小の兵法すなわち撃剣稽古の道〟を説く水之巻と、〝合戦の理〟を説く火之巻に通底する理は同じであると解釈いたします。

風之巻

 次は、他流を評論する風之巻の締めくくりの簡約です。
[世間の兵法を真っ直ぐな道理より見渡すと、長い太刀を使うことを専らとする流派、あるいは短い太刀を使うことに理ありとする流派、また、強い・弱い、さらには粗い・細かいと断ずること、それらはいずれも偏った道である。他流のように口奥(序の口と奥義)と表さずとも、皆が経験する事柄である。我が一流においては太刀に奥口はない。また、構えに極まりはなく、ただ心をもってその徳をわきまえること、これが兵法において肝心なところである]
 この風之巻における万理一空のあらましは〝正しい道理は、心をもってそれぞれの徳をわきまえること〟でしょうか。

空之巻

 第五の空之巻は、「道理をつかんだ後はその道理を離れ、兵法の道ひとりでに自由となり、自然に人並み優れた力量を収め、時機到来して拍子を知り、手に剣のあるを忘れ、剣また手あるを忘れるの境地、これみな空の道なり」としてます。
 以下は本文の簡約です。
[空という心は、ものごとの形がなく知れないことを、空と見立てることである。もちろん空は無いことである。有るところを知って、無いところを知る、これ即ち空である。世間における卑俗な見方をすれば、無智なことを空と見るのは実の空ではない、これらは皆迷う心である。武士として道を行うのにやり様を知らないのは空ではない。色々迷いがあり為すべき方法が無いのは実の空ではない。武士は、兵法の道において確固たる心掛けをもち、武芸によく励み、武士の振る舞いに明るく、心が迷うことなく、朝から晩まで片時も怠らず、心意二つの心を磨き、観見二つの眼を研ぎ、少しも曇りなく、迷いの雲が晴れることこそ、それが実の空だと知るべきである。実の道を知らない間は、仏の説いた教えにせよ俗世間の規範にせよ、自分は確かに体得したと思い、なすべきことはなし終えたと思っていても、心を真っ直ぐにして、世の中の大きな尺度に合せて見る時は、自分の身びいきや目の歪みによって、実の道には背いているものである。その心を知って、直なるところを根本とし、実の心を道として、兵法を広く行い、正しく明らかに、大なるところを思い取って、空を道とし、道を空と見るところである。
 空は善有って悪無し、智は有なり、利は有なり、道は有なり、心は空なり]

 これが空之巻の全文です。具体的なことは何も記述されておりません。
 まさに「空」の巻です。
 この空之巻における万理一空のあらましは、前の〝書あらはしがたく候へば、自身御工夫なさるべきものなり(『兵法三十五箇条』「万理一空の事」)〟という落ちとなりました。 「曰く言い難し、この『五輪書』を熟読玩味し、よくよく工夫、鍛錬すべし」ととらえてください。

 以上、宮本武蔵の至った終の境地「万理一空」を、『五輪書』を繙くことによって、その真理に迫ろうと要約を試みました。
 筆者未達ゆえ隔靴掻痒の感はまぬがれませんが、あくまで井の底から空を仰ぎ見た、小円の天窓から導き出した解釈です。
 円窓にうつる「一空」から「万理」を導き出すのは無理だとしても、「理」ならぬ「里」において、天高く「万里」を見通そう…と、冷笑を覚悟の上で書き進めました。
 しかしながら、武蔵が『五輪書』に記した教えの数々は、現代の剣道人生においても十分当てはまる理を示していると考えるものです。
 - よくよく精進すべし -


つづく
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プロフィール

新宿区剣道連盟

Author:新宿区剣道連盟
「井蛙剣談」への思い

 「井の中の蛙大海を知らず」と自覚しつつ
「井の中は誰よりも知っている蛙」に成り代わり書き進めてまいります
つたなき指導の一環とお受け止めいただければ幸いです
               真砂 威

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