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信仰と祭り

その111
信仰と祭り
-『逝きし世の面影』を読む「第十三章」-
 これまで「第一章 ある文明の幻影」「第二章 陽気な人びと」「第三章 簡素とゆたかさ」「第四章 親和と礼節」とすすめて来ました。以下本書は、「第五章 雑多と充溢」「第六章 労働と身体」「第七章 自由と身分」「第八章 裸体と性」「第九章 女の位相」「第十章 子どもの楽園」「第十一章 風景とコスモス」「第十二章 生類とコスモス」へ続きますが、割愛させていただき「第十三章 信仰と祭り」へジャンプいたします。

 以前、日本人は宗教的にひじょうに寛容であると同時に、ひとつ間違えば節操に危ういものを潜ませている、ということを申し述べました。

 剣談H28.09.26その九十『わが国の〝かたち〟をとりもどそう - 武道のすすめ - ②』「四 節操に危うい国、日本」です。今一度お目通しください。
*
四 節操に危うい国、日本 
 昔も今も日本人は、キリスト教やイスラム教などの一神教の国の人たちと比べると、きわめて宗教的に寛容である。神前で読経したり、神社に神宮寺をつくったり、寺院の境内に守護神を祭って鎮守としたりする。卑近な例をあげれば、年末にはクリスマスを祝い、お正月には神社で柏手を打つ、結婚式は教会、七五三は神社、葬式はお寺でということはごくふつうに行われている。それは宗教としてではなくそれぞれ使い分けてイベント的にこなしている。そういう面では懐が広いというか、非常に大らかな国民である。
 古代からわが国には「八百万の神」といって、森羅万象に神の発現を認めるならわしがある。いわゆる「多神教の神」である。またこの神は仏教とも習合し、それぞれ矛盾なく信仰されてきた。このことが他の宗教を大らかに受け入れられる素地となってるのだと考えられる。
 しかし、このようなふるまいは一神教の人たちから見たら原理、原則のない「なんでもあり」の世界で、極めて節操のない所行としかうつらないのである。
 そのとおり、日本人は一つまちがえば節操がまるでなくなる危うい国民なのである。自分さえよければ式の詐欺・偽造・捏造(ねつぞう)は、いまに始まったものではない。…中略… 消費者を欺く行為を平然と行う事案など、この種の組織ぐるみの事件が頻発してやまない。これは手違いとかミスなどというものではなく、明らかに故意に行われた犯罪である。そしてその組織のトップも、同僚も部下も、「みんなが黙っていれば大丈夫」という心算を共有して行われる類(たぐい)のものである。…中略…
- われわれ日本人は〝節操に危うい国民〟であることをしかと自覚すべし -
*
 この文を書いたのは平成18年ですが、あのときはまだ本書『逝きし世の面影』の存在を知りませんでした。いまこの書を読んで見ますと、ここに登場する外国人も、日本人の宗教心の薄さについて述べていたことに今さらながら気づかされます。

♢ ヴィシェスラフツォフ
 「日本人はまるで気晴らしか何かするように祭日を大規模に祝うのであるが、宗教そのものにはいたって無関心で、宗教は民衆の精神的欲求を満足させるものとしては少しも作用していない」

♢ ゴロヴニン
 「寺社なんかに一度も詣ったことはないといったり、宗教上の儀式を嘲笑したりして、それをいくらか自慢にしている日本人をわれわれは沢山知っている」

♢ ハリス
 「僧侶や神宮、寺院、神社、像などのひじょうに多い国でありながら、日本ぐらい宗教上の問題に大いに無関心な国… この国の上層階級の者は、実際はみな無神論者であると私は信ずる」

♢ オールコック
 「寺院の境内では芝居が演じられ、また射的場や市や茶屋げ設けられ、花の展示、珍獣の見せ物… こういった雑多な寄せ集めは、敬虔な感情や真面目な信仰とほとんど両立しがたい」(浅草のこと)

 また、神仏に手を合わせるのは単なる便宜的な社会慣習とみなし、宗教は娯楽、巡礼はピクニックだとも指摘しています。

♢ リンダウ
 民衆は「宗派の区別なく、通りすがりに入った寺院のどこでも祈りを捧げる」しかし彼らは信仰からそうするのではなく、神聖とされる場所への礼儀としてそうしているのである。

と、宗教心の薄さと礼儀正しさが同居していることにも言及しています。

 著者も、
「知識階級が仏教や神道というこの国の伝統的宗教から離れ、従って旧い信仰を保っている民衆から切り離されたのは、明治以来の近代化・世俗化の結果だと信じてる。あに計らんや、それは徳川期いらいの伝統であったのだ」
と驚きをあらわにしています。

♢ バード
 「破綻した虚構にもとづく帝位、人々から馬鹿にされながら、表面上は崇敬されている国家宗教、教養ある階級にはびこる懐疑主義、下層階級の上にふんぞりか返る無知な僧侶。頂点には強大な専制をそなえ、底辺には裸の人夫たちを従え、最高の信条はむき出しの物質主義であり、目標は物質的利益であって、改宗し破壊し、キリスト教文明の果実はいただくが、それを実らせた木は拒否するひとつの帝国」

と手厳しく指摘しています。

 それを著者は、
「新時代の産物というよりむしろ、徳川というアンシャン・レジームからひき継いだ知識層の心性だったとみるべきである。むしろその底には儒学的合理主義と徹底した現世主義が存在した」
と結論づけています。

 井蛙剣談「その八十九」~「その九十三」掲載の『わが国の〝かたち〟をとりもどそう - 武道のすすめ -』は、敬虔なる宗教心はもちあわせていなくとも、高い道徳心とぶれない基軸をもって生きる、ということをテーマにしたものです。あわせて今一度ごらんください。
つづく
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新宿区剣道連盟

Author:新宿区剣道連盟
「井蛙剣談」への思い

 「井の中の蛙大海を知らず」と自覚しつつ
「井の中は誰よりも知っている蛙」に成り代わり書き進めてまいります
つたなき指導の一環とお受け止めいただければ幸いです
               真砂 威

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