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先について

その九十八
先について
 前回、二度三度「機会をどのようにとらえるか」と申しましたが、「とらえる」という言い方をした時点で、過ちが生じる元ともなります。
 たとえば①の「技の起こり」ですが、ここを打つのを「出ばな技」と言い、打突の好機の最たるものとされています。

 しかし、この技の起こりをとらえようとする胸の内はどのようなものでしょうか。常日ごろの稽古場面を思い浮かべてください。
 出ばな技を、モグラ叩きゲームのごとく(どの穴から顔を出すかわからない状態の中)、とつじょ頭を出したモグラを素早くハンマーで叩く。
 このような〝待ち受け〟の気持ちで構えてはいませんか。

 もし、目を皿のように待ち構えて素速く打つのが機会のとらえ方である、と考えておられるのであれば、それは、根本的に間違っている、と申し上げます。
 なぜなら、そこには「先」と「後」の問題がすっぽり抜け落ちているからです。
 「打突の好機」をとらえるには、その以前に「先」をとっていることが大事なのです。
 ここで少し、「先」と「後」について考えてみましょう。
 先とは、先んじることですが、間合という時空間の中では、空間的には「前」であり、時間的には「はやい」ということです。
 先には、「先々の先」「先」「後の先」があるとされていますが、話を混乱させないため、ここでは横へ置いておきます。
 次には先と後の問題ですが、技の起こりを「とらえよう」とする気持ちを抱いた時点で「後」となっていることに気づかなければなりません。
 なぜならば、さきほどのモグラ叩きのように、相手の動きが先にあって、その動きを視覚でとらえた後に反応するわけですから、いくら素早い反応で出ばな技を決め有効打となり得たとしても、それはあくまで「後」の技にほかなりません。たとえ部位をしっかりとらえ有効打突となったとしても、タイミングが合ったというだけで、まぐれ当たりの域を出ないのです。今いちど同じ技を同じ筋道で再現させることはできません。再現性のないものは、理に適ったとは言えないのです。
 相手の動きに対する反射動作は「後」であって、後は、すなわち「後れ」である、と肝に銘じなければなりません。

-話がちょっと横道にそれますが—
 毎年11月3日には全日本選手権大会があります。皆さん方の中には日本武道館に足を運ばれる方、またTVで観戦される方も沢山おられると思います。
 お気づきかも知れませんが、あの選手権大会をはじめとする学生大会など若い世代の試合のほとんどが今申し上げた反射運動の連続に終始しています。
 いえけっしてそれが悪いと言っているのではありません。要するに、限りなく本能的な競技スポーツになっていると申し上げたいのです。
 といってまた剣道が競技スポーツ化することも一概に悪いといっているのでもありません。
 戦いの形態は別として、精神的に、おそらく刀による昔の真剣勝負もあのように、いや、もっと本能的で、もっと必死の様相であったことは想像に難くありません。
 そんなことどもを踏まえ考えますところ、総じて世の中の勝敗あるいは優劣は「理合」ありきで成っているのでは決してありません。
 実社会における大方の事実は理に添って動いてるとは言いがたいのです。
 皆さん方の身の周りに起こっている世の中の現実を見て下さい。なべて理不尽や不合理なことばかりではないでしょうか。
 いつの時代も無理や非道、無道がまかり通ってきたといって過言ではありません。「理」ではなく「理外の理」で動いている、これが現実であり、人間が踏んできた歴史なのです。
 ですから若い世代の剣道が、反射とスピード、動物的本能そのものの、出たとこ勝負、であって仕方ないのかもしれません。
 つまるところ「理外の理」、これもひとつの「理」であると考えねばなりません。
 また、よく「審査と試合は違う」と言われますが、同じ剣道なのになぜ審査と試合が違ってくるのでしょうか。これも取りも直さず、「理」と「理外の理」の関係であるととらえられます。
 でありますから、剣道の修錬は「すべからく理を求めつつも、理外の理、また理不尽もありうる」という認識をもって臨むのがよいかと考えるしだいです。
 というより、剣道の修錬によって表裏、清濁ある人の世を学ぶ、といった方がよさそうです。
 理を求めつつ、理不尽をも従容として受け入れるという修行を心懸けることが肝要かと。
 頭の整理のしかたとしては、「上達」は理によって成り、「勝負」は理外の理で決する、と考えればよいかと思います。

-話を元に戻します-
 さて、剣道でいう理合としての「出ばな技」とはどのようなものでしょうか。
 モグラ叩きは機械ですから生身の応答関係は生じませんが、あの機械に替わって自分があのモグラになってみたらどうでしょう。
 「頭を出そうか出すまいか」と外を窺うと、ハンマーを持った力み立った相手の隆々とした腕が見える。その「頭を出そうか出すまいか」の相手への働きかけこそが「先」なのです。頭を出すまで相手は動けません。主導権はこちら側にあるからです。「がまん」の大切さも思い起こしてください。
 もう一つ、「先と後」の関係でわかりやすい話をします。
 オーケストラの演奏を頭に浮かべてみてください。
 本来、指揮者が「先」、奏者が「後」で、指揮者にすべての奏者が従っているわけです。
 しかし、素人目では、奏者が指揮者の指揮に従って楽器を演奏しているのか、反対に指揮者が奏者の奏でる曲に合わせて手を動かしているのか、一見して見分けがつきません。
「先と後」とは、そんな微妙な関係なのです。
 仮に、奏者が指揮者に従わず、自分たちのリズムで演奏するとしましょう。
 ええっ! 完全に先と後が逆転してしまいます。指揮者は曲に合わせて指揮棒を振るピエロにならざるを得ないのです。(笑)
 これはあくまでもたとえ話ですが、「先と後」の微妙な関係を理解していただければ幸いです。
 剣道では、生身の人間がお互い同士、応答関係を築き、その上で主導権をつかむことを体得することが大切であります。
つづく
平成29年2月3日

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新宿区剣道連盟

Author:新宿区剣道連盟
「井蛙剣談」への思い

 「井の中の蛙大海を知らず」と自覚しつつ
「井の中は誰よりも知っている蛙」に成り代わり書き進めてまいります
つたなき指導の一環とお受け止めいただければ幸いです
               真砂 威

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