気剣体一致を創る②


気剣体一致を創る②
3.空間打突の「ひとり稽古」へ
 この中井美学を剣道に生かそうとして行き当たったのが「空間打突」という稽古法でありました。あの当時は「空間打突」という言葉自体があったのかどうか、 単に「ひとり稽古」と言っていたような気もします。そして『美学入門』のあの一節を反芻しつつ行う空間打突の「ひとり稽古」を自己に課しました。
 すなわち「気剣体一致」した単独動作としての身ごなし、技の「決めの型」を創り上げることです。
 部位に当たる当たらないは度外視するなど一切の雑念を削ぎ落とし、まず身体に竹刀を同化させ、技の「決めの型」を表現できるようになることを目ざしました。
 当然のことですが、相手がいなく自分一人で「決めの形」を表現するのは至難の業です。両手に竹刀を把持し、身ぶり表情によって有効打突を表現することの難しさを痛感することから始まります。
 今まで当たり前のように「一本あり」と通用していたはずの、この自分の技がいかに拙劣であったかを思い知らされます。まるで素人のパントマイムのように手と足がちぐはぐな無機的動作で、なかなか頭に描いたような有効打突の形が表現できません。
 日本剣道形のようにすり足で行う打突動作であればなんとなく収まった形で表現できるのですが、竹刀剣道の踏み切り踏み込み足でもって、相手がいない空間で決めの形を表現しようとしても、まるで格好がつきません。ぎくしゃく感に苛(さいな)まれる日々が延々と続きます。
 1年ぐらい経ったころだったでしょうか、何千回、何万回と量をこなすうち、「量質転化」が起こったたのか、徐々に動きの質が変わってくる感覚がおとずれました。
 中井美学で言う、水泳の「ゆったりと水に身を任せたような、すらっとした楽な心もち」で、「自分の肉体が、一つのあるべき法則、一つの形式、型を探りあてた」ような感覚です。
 仮想した相手を空打、空突するひとり稽古が次第に心楽しくなってきたのです。まさに真の自己に出会えたような感覚とでも言いましょうか。
 剣道にかぎらず何事も、悪癖を直(治)すといったときには「矯正」というニュアンスがつきまといます。しかし、空間打突の修錬は決して「矯正」するのではありません。「無」から「有」に形を創り上げることなのです。「矯正」という言葉は、刑務所などで行われる矯正教育のような、どことなく暗さを伴うのに対し、「創造」という言葉は明るい未来といった希望をいだかせます。
 この空間打突の「ひとり稽古」の重要性がしっかり認識でき、また、この単純でいて難しい動作を諦めずに続けることができたことは、自分の剣道人生にとって最大の財産となったと言えるでしょう。
それでは、実際に自分が行ってきた空間打突について述べてみたいと思います。

4.「空間打突」の実際
(1) 脱パワー、脱スピード
 日本の文化は「型の文化」といわれています。空間打突は確固とした技の「型」を創り上げようとするものです。そのためには、脱パワーを心がけ力技から脱すること。また、脱スピードと言いますか、速さでの間に合わせから脱却する覚悟で行う必要があります。筋肉を緩めた状態で始動するのでゴツゴツ感がなく、したがって動きの気配を減じさせるはたらきもあります。
(2) 握らない
 次に、竹刀の操作は手が主導しないことです。原動力は腰を中心とする身体から発して肩から腕、手と伝動し、持った竹刀がしなやかに身体と一体となるよう使います。
よく「竹刀の握り方」という言いかたがなされていますが、使う言語にも注意しましょう。「握る」と言った時点で握力という「力む」ことが意味の中に包含されているので要注意です。
 竹刀は「持つ」でいいのです。傘を「持つ」、包丁を「持つ」、ペンをを「持つ」は自然な力みのない感じを与えますが、これを傘を「握る」、包丁を「握る」、ペンを「握る」といった場合、何か痼(しこ)ったイメージとなるので、まず言葉から注意しましょう。
(3) 両手の拘束
 剣道の難しさは、竹刀を両方の手で持つという、いわば左右の手が拘束された不自由な状態となることが根底にあります。両手に手錠をかけられたような不自由な状態で戦うわけですから難しさを極めるわけです。
 剣道の技術は、日本刀の成り立ちとも関係が深いのですが、ともかく刀の諸手把持こそが剣道の精神性に大きく影響を与えました。このことについては後日、稿を改めたいと考えております。
(4) 連続技とは
 「連続技」というものがありますが、これはあくまで初太刀が有効にならなかった場合の二の太刀であります。はじめから2打目で決めるための2連技ではないことを認識してください。「小手→面」が、2打目の面を決めるための「小手面」の2連技であるとするならば、初太刀の小手打ちは何か。ただ相手を惑わすためのフェイントにほかならないということになります。
 「小手→面」の初太刀の小手が的確に部位をとらえたとき、そこで留め小手を決める。小手が不十分であったときに二の太刀として面を打つ。これが「小手→面」の理合というものです。これは空間打突の稽古でしか身につかないかもしれません。あのリズミカルに2段打ちで放たれる「小手面」から早く卒業してください。
(5) 跳(飛)ばない
 左足で踏み切るときは、跳び足にならないように気をつけましょう。必ず左右どちらかの足は床に接していなければなりません。わが身を安全圏に置いて遠くから届かせようとするから跳ぶことになるのです。両足が同時に床から離れることがあってはなりません。
(6) 重心を下げる
 重心を下げ、常に下腹を意識して行います。臍下丹田の形成と申しましょうか、ここが西洋スポーツと根本から違うところです。西洋スポーツの理想体型は逆三角形(▽)ですが、日本の武道はなで肩で下腹部が張り出した正三角形(△)を理想とします。構えた姿は富士山をイメージするとよいと言われています。

 ざっとこのような感じで空間打突を行いますが、あくまでこの稽古は自分自身に向かい合って行うものです。自分の内側に目を向けます。相手はいません。いかに自分が納得するかの絶対評価です。
 この稽古法は、根気さえあれば、年齢、性別、体力、体格等に関係なく誰でも気剣体一致を身につけることができると断言いたします。

5.次なる課題
 自己の型ができあがれば、次には実際に相手をとっての実践です。しかし、その打突行動を起こす前提に「間合(間)」「攻め」「機会」の問題が立ちはだかります。
 「間合(間)」には、距離的近接性と時間的切迫性、そして拍子といったことがからんできます。「攻め」については、打つぞ突くぞの気迫で相手を圧するとしても、時と場合によって攻めの形態は千変万化するものです。「機会」についても、先と後、反射と応答、その前に生ずる「きざし」をいかに察するか。
 そして、「正中線(中心線)」という最大の課題に行き当たります。相手と構えあった時、まず問題となるのは正中線です。双方が竹刀を持って差し向かえば、相手の中心と自己の中心を貫く線は一筋しか通っていません。当然、剣先で中心の取り合いなるのは必定。一方が中心を取れば片方は外れる。それを力だのみに中心を取り返しても詮ないこと。わが剣先が中心にあるがごとく感じるのるも錯覚、それは虚像であって実像は大きく中心から外れていることに気づかなければなりません。すでに正中線の取り合いの時点で勝負はついているのです。
 目下、この妙味を会得すべく精進の日々を送っている昨今であります。
つづく
平成28年12月16日

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Author:新宿区剣道連盟
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 「井の中の蛙大海を知らず」と自覚しつつ
「井の中は誰よりも知っている蛙」に成り代わり書き進めてまいります
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               真砂 威

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