〝かたち〟をつくる
その119
〝かたち〟をつくる
本来ならば、素振りと空間打突を峻別する必要はないのかも知れませんが、私がこの両者を意識の中ではっきりと区別した理由を申します。
まず気が付いたことは、前進後退して行う素振りの、すり足で一歩前進一歩後退するときの足使いと、実際に相手と対し踏み込み足で打ち込む場合の足使いが違うことです。
前進後退の素振りでは、前進するとき、すり足で右足を踏み出し、左足を引きつけると同時に打ちます。
しかし、実際の打ち込みの場合は、左足で踏み切り、右足を踏み込むと同時に打ちます。
この両者、言葉の上では大差ないように思われますが、やってみると大きな違いがあります。
両者の違いの根本は何でしょう?
一概には言えませんが、それは「切る」と「打つ」との動作の違いと考えられます。
例えば日本剣道形は、すり足で行いますが、竹刀剣道では踏み込み足で行います。
日本剣道形の「切る」の動作は、右足を踏み出した後、左足を引きつけると同時に切りますが、竹刀剣道の「打つ」の動作は、右足を踏み込むと同時に打ち、打った後に左足を引きつけます。
「切る」動作は体の安定を保ったまま前進移動しますが、「打つ」動作は左足で踏み切り、体の勢いをつけ右足で踏み込みます。
この踏み切り(蹴り)踏み込み(着地)動作は体のバランスを保つのに非常な困難を伴います。左足で踏み切って体を勢いよく前に推し進め、着地時、右足を強く踏む、その跳ね返り(反動)によってバランスを保っているのです。
また、踏み込みの強さが打ちの強さと大いに関連するので、この動作を確実に身につけることが肝要とされます。
「剣道は難しい」と言われる第一関門は、踏み切り踏み込み足で剣と体を一致させるところにあると思われます。
このように、「切る」と「打つ」には動作の明確な違いが存在するにも関わらず、なぜ同列に扱われているのでしょうか。
江戸時代中期に竹刀防具打込稽古法が考案され、やがてこの稽古法が主流として発展してゆく過程で、技法が「切る」から「打つ」へと移り変わっていきます。
しかし本来は「切る」を目的としたもので、「打つ」はその方便であったわけですから、両者を区別する必要がなかったのでしょう。
これがそのまま現代剣道に繋がっているわけです。
『日本剣道形解説書』には、太刀の形一本目に「打太刀は機を見て右足を踏み出し、仕太刀の正面を打つ」と表現されています。その上で脚注に「打つということは、切るという意味である」と「打つ」と「切る」を同列に扱っています。
これは、大正元年に制定された「大日本帝国剣道形」第一本に「(註)打つは切るの意なり以下之に準す」と記されていることから、これを踏襲したものでしょう。
また、刀の「切る」と竹刀の「打つ」を別物としてしまえば、剣道の歴史の連綿性が失われるおそれがあるので、ここは曖昧にしておいて観念上、同列に扱ってきたものと推察されます。
よく準備運動として行われる、前進後退、正面の素振りは多くの剣士がリズミカルにこなしています。
しかし実際の面打ちのように、空間で踏み切り踏み込み足によって打ち込む面打ちはなかなか体の納まりがつきません。
翻って考えると、初心者を指導するに当たっては、実際に面を打たせて、竹刀の打ちと踏み込み足が一致した時点で防具の着装を許す場合が多いのですが、その打ち込みを空間で行わせる指導は、まず行われていません。
たぶん、指導者自身が得意としていない、のだと思います。現に私自身、そのことに気付いた20歳代後半、五段でしたが、この空間で行う打突は全くカタチになりませんでしたから。
かなりの高段者でも空間での踏み切り踏み込み足の打突が満足にできる人は極少ないと思われます。
この、空間での打ち込み練習が大切である、ということはもっと若い時代から薄々気がついてはいましたが、やってみて余りにもサマにならない、面白味がないので避けていた嫌いがあります。
しかし、切る動作の素振りをいくらやっても打ち込む動作が上手になるとは思えません。
ここで一念発起、更なる上達を目指すなら空間での打ち込み練習をやるべし、となりました。
面、小手、胴、突き、それぞれ打ち込み動作の〝かたち〟をつくるべく、空間での打ち込み練習を自己の修錬として課しました。
〝空間での踏み切り踏み込み足の打突〟端折って「空間打突」
「空間打突」が、「素振り」ときっぱり決別したときでした。
いよいよ〝かたち〟をつくる修錬の始まりです。
「おお、そういえば日本の文化を〝型の文化〟と言ったなぁ」と、自分が発心したことと伝統文化、剣道と割り符が合ったことに思わずニンマリ。
このように明るい希望をもって空間打突の修錬に取り組みますが......
竹刀を持った我が身体は、なかなか自己が描いた太刀の道の「型」に嵌まってくれません。まるでサマにならならない。
五段を有する身でありながら、空間打突における技前、身体感への自己評価は、ほぼゼロに近いものです。いったい今までノルマを課して大真面目にやってきた素振りは何だったのか。
ギクシャク感に苛まれる日々が連綿として続くのです。
つづく
〝かたち〟をつくる
本来ならば、素振りと空間打突を峻別する必要はないのかも知れませんが、私がこの両者を意識の中ではっきりと区別した理由を申します。
まず気が付いたことは、前進後退して行う素振りの、すり足で一歩前進一歩後退するときの足使いと、実際に相手と対し踏み込み足で打ち込む場合の足使いが違うことです。
前進後退の素振りでは、前進するとき、すり足で右足を踏み出し、左足を引きつけると同時に打ちます。
しかし、実際の打ち込みの場合は、左足で踏み切り、右足を踏み込むと同時に打ちます。
この両者、言葉の上では大差ないように思われますが、やってみると大きな違いがあります。
両者の違いの根本は何でしょう?
一概には言えませんが、それは「切る」と「打つ」との動作の違いと考えられます。
例えば日本剣道形は、すり足で行いますが、竹刀剣道では踏み込み足で行います。
日本剣道形の「切る」の動作は、右足を踏み出した後、左足を引きつけると同時に切りますが、竹刀剣道の「打つ」の動作は、右足を踏み込むと同時に打ち、打った後に左足を引きつけます。
「切る」動作は体の安定を保ったまま前進移動しますが、「打つ」動作は左足で踏み切り、体の勢いをつけ右足で踏み込みます。
この踏み切り(蹴り)踏み込み(着地)動作は体のバランスを保つのに非常な困難を伴います。左足で踏み切って体を勢いよく前に推し進め、着地時、右足を強く踏む、その跳ね返り(反動)によってバランスを保っているのです。
また、踏み込みの強さが打ちの強さと大いに関連するので、この動作を確実に身につけることが肝要とされます。
「剣道は難しい」と言われる第一関門は、踏み切り踏み込み足で剣と体を一致させるところにあると思われます。
このように、「切る」と「打つ」には動作の明確な違いが存在するにも関わらず、なぜ同列に扱われているのでしょうか。
江戸時代中期に竹刀防具打込稽古法が考案され、やがてこの稽古法が主流として発展してゆく過程で、技法が「切る」から「打つ」へと移り変わっていきます。
しかし本来は「切る」を目的としたもので、「打つ」はその方便であったわけですから、両者を区別する必要がなかったのでしょう。
これがそのまま現代剣道に繋がっているわけです。
『日本剣道形解説書』には、太刀の形一本目に「打太刀は機を見て右足を踏み出し、仕太刀の正面を打つ」と表現されています。その上で脚注に「打つということは、切るという意味である」と「打つ」と「切る」を同列に扱っています。
これは、大正元年に制定された「大日本帝国剣道形」第一本に「(註)打つは切るの意なり以下之に準す」と記されていることから、これを踏襲したものでしょう。
また、刀の「切る」と竹刀の「打つ」を別物としてしまえば、剣道の歴史の連綿性が失われるおそれがあるので、ここは曖昧にしておいて観念上、同列に扱ってきたものと推察されます。
よく準備運動として行われる、前進後退、正面の素振りは多くの剣士がリズミカルにこなしています。
しかし実際の面打ちのように、空間で踏み切り踏み込み足によって打ち込む面打ちはなかなか体の納まりがつきません。
翻って考えると、初心者を指導するに当たっては、実際に面を打たせて、竹刀の打ちと踏み込み足が一致した時点で防具の着装を許す場合が多いのですが、その打ち込みを空間で行わせる指導は、まず行われていません。
たぶん、指導者自身が得意としていない、のだと思います。現に私自身、そのことに気付いた20歳代後半、五段でしたが、この空間で行う打突は全くカタチになりませんでしたから。
かなりの高段者でも空間での踏み切り踏み込み足の打突が満足にできる人は極少ないと思われます。
この、空間での打ち込み練習が大切である、ということはもっと若い時代から薄々気がついてはいましたが、やってみて余りにもサマにならない、面白味がないので避けていた嫌いがあります。
しかし、切る動作の素振りをいくらやっても打ち込む動作が上手になるとは思えません。
ここで一念発起、更なる上達を目指すなら空間での打ち込み練習をやるべし、となりました。
面、小手、胴、突き、それぞれ打ち込み動作の〝かたち〟をつくるべく、空間での打ち込み練習を自己の修錬として課しました。
〝空間での踏み切り踏み込み足の打突〟端折って「空間打突」
「空間打突」が、「素振り」ときっぱり決別したときでした。
いよいよ〝かたち〟をつくる修錬の始まりです。
「おお、そういえば日本の文化を〝型の文化〟と言ったなぁ」と、自分が発心したことと伝統文化、剣道と割り符が合ったことに思わずニンマリ。
このように明るい希望をもって空間打突の修錬に取り組みますが......
竹刀を持った我が身体は、なかなか自己が描いた太刀の道の「型」に嵌まってくれません。まるでサマにならならない。
五段を有する身でありながら、空間打突における技前、身体感への自己評価は、ほぼゼロに近いものです。いったい今までノルマを課して大真面目にやってきた素振りは何だったのか。
ギクシャク感に苛まれる日々が連綿として続くのです。
つづく
スポンサーサイト