一期一会
一期一会
前回は、寿命の短さと距離の間遠さを、吉田松陰の生涯を通して実感していただけたかと存じます。
足跡の日付については、司馬遼太郎著の歴史小説『世に棲む日日』から引っ張り出しました。
小生がこの本を読んだのは、それこそ松陰の享年である30歳ころであったと記憶しています。自分と同い年の青年が、自らの命を省みることなく進んで時代の捨て石となった、その心中を慮り感慨にふけったものです。
そして強く考えさせられたのは、寿命の短さと距離の間遠さについてです。松陰の切迫した思いと、はかが行かぬ距離の遠さ、そして費やした時間と、それに引き合わぬ徒労の行脚、その数々にもどかしさひとしおです。
その中でも一番強く印象に残ったのは長崎行です。ペリー来航の後、アメリカと同様の要求を掲げ、ロシア艦隊4隻が長崎港に入った。この情報を得るや、「先進の国に学ぶべし」とロシア行きを決意します。そして江戸から40日ほどかけて長崎に行き着くが、既にロシア艦隊は出港して居ず、です。こんなとき私だったら落胆に打ちひしがれ、その場にへたり込んでしまうところでしょう。しかし松陰は、「そうか、仕方がない」と、即座に踵を転じ、また2ヶ月かけて江戸に取って返します。
江戸(9月18日)→長崎(10月27日)⇄江戸(12月27日)、この3ヶ月あまりの月日時間はいったい何だったのでしょう。今なら東京-長崎は、数時間で往復できる距離なのに…なんと無駄な、と、思ってしまいます。
しかし、この小説においてだけではなく昔の人の旅は、めざす土地へと一途に向かいながらも、その道すがら、土地の学者を訪ねたり知己に会うために足を伸ばしたり、また名所旧跡を巡ったりと、その土地土地に足跡を印しながら目的地に向かうという悠揚としたものだったようです。
目的地に向け、はち切れんばかりの急ぐ気持ちを懐きつつも、うらはらに旅の途上において回り道することを少しも厭わない。
現在と違い連絡がままならず、入れ違い、行き違い、待ちぼうけなど日常茶飯事であったことでしょう。
何の約束も取り交わさず、出たとこ勝負で人を訪ねることもしばしば。また、たとえ人と会う約束を交わす場合でも、月日や刻限については大雑把であったに違いありません。
しかし、こういった遠い隔たりの時代にあってこそ、一つの出会いを大切に深く感じとり、かけがえのない誼として、互いの関係を濃密に築くことができたのではないかと考えます。
短い寿命と距離の間遠さにもかかわらず、そこにはどこかゆったりした時間の流れが感じられます。そしてそこに「一期一会」の深意をうかがい知ることができるのです。
ひるがえって今日のわれわれは、いくら離れていてもお互い同士が、いつでもどこでも会話を交わすことができ、また先の東京-長崎、それ以遠の所であっても、ほとんどがその日のうちに行き来できるという、非常に便利な時代を生きています。
さらには待ち合わせも、お互い至近距離にいるにもかかわらず、携帯電話で居場所を確かめつつ、ということもふつうに行われています。
しかし一方で、この緊密さ便利さがかえって人と人との交流を軽薄なものにしていることも否めません。
今や一期一会を説く人も習う人も、あの時代と等し並みの胸の裡を実感する環境にはありません。
一期一会とは、「一生に一度限りであること。」と然るていに頭をよぎる四字熟語の世界に追いやられてしまったように思われます。
幸い剣道は、竹刀と竹刀を交えた遣り取りを、生死をかけた真剣勝負と見なし、相互に熱き攻防を展開するものであります。また出稽古など、見知らぬ相手との手合わせとなれば、ことさら一期一会を唱えることなく、おのずとその深意が実感されるものであります。
剣道は伝統文化といわれますが、形だけではなく心の在り方をも延々と受け継がれており心強く感じるものです。
ともあれ濃密と緊密とは、似て非なるもののようですが、まことにもって濃密な時を生きた吉田松陰は、30歳のとき斬首刑に処せられます。そして辞世の句
身はたとひ武蔵野の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂
を残しました。
松陰の斬首役を務めたのが*山田朝右衛門です。斬首役には処刑者の名前は知らせませんが、朝右衛門は後日、「安政六年十月二十七日に斬った若侍はことのほか見事な死に際であった」と語ったとのことです。
松陰の国を思う志の強さと、まぎれのない行動に甚く感銘を受けたしだいです。
つづく
* 江戸中期以降、代々、将軍の刀のためし斬りを本職とし、また死罪執行のとき斬首役をも引き受けた浪人。世に首斬朝右衛門と称。初代は1700年頃の人。(『広辞苑』より)
前回は、寿命の短さと距離の間遠さを、吉田松陰の生涯を通して実感していただけたかと存じます。
足跡の日付については、司馬遼太郎著の歴史小説『世に棲む日日』から引っ張り出しました。
小生がこの本を読んだのは、それこそ松陰の享年である30歳ころであったと記憶しています。自分と同い年の青年が、自らの命を省みることなく進んで時代の捨て石となった、その心中を慮り感慨にふけったものです。
そして強く考えさせられたのは、寿命の短さと距離の間遠さについてです。松陰の切迫した思いと、はかが行かぬ距離の遠さ、そして費やした時間と、それに引き合わぬ徒労の行脚、その数々にもどかしさひとしおです。
その中でも一番強く印象に残ったのは長崎行です。ペリー来航の後、アメリカと同様の要求を掲げ、ロシア艦隊4隻が長崎港に入った。この情報を得るや、「先進の国に学ぶべし」とロシア行きを決意します。そして江戸から40日ほどかけて長崎に行き着くが、既にロシア艦隊は出港して居ず、です。こんなとき私だったら落胆に打ちひしがれ、その場にへたり込んでしまうところでしょう。しかし松陰は、「そうか、仕方がない」と、即座に踵を転じ、また2ヶ月かけて江戸に取って返します。
江戸(9月18日)→長崎(10月27日)⇄江戸(12月27日)、この3ヶ月あまりの月日時間はいったい何だったのでしょう。今なら東京-長崎は、数時間で往復できる距離なのに…なんと無駄な、と、思ってしまいます。
しかし、この小説においてだけではなく昔の人の旅は、めざす土地へと一途に向かいながらも、その道すがら、土地の学者を訪ねたり知己に会うために足を伸ばしたり、また名所旧跡を巡ったりと、その土地土地に足跡を印しながら目的地に向かうという悠揚としたものだったようです。
目的地に向け、はち切れんばかりの急ぐ気持ちを懐きつつも、うらはらに旅の途上において回り道することを少しも厭わない。
現在と違い連絡がままならず、入れ違い、行き違い、待ちぼうけなど日常茶飯事であったことでしょう。
何の約束も取り交わさず、出たとこ勝負で人を訪ねることもしばしば。また、たとえ人と会う約束を交わす場合でも、月日や刻限については大雑把であったに違いありません。
しかし、こういった遠い隔たりの時代にあってこそ、一つの出会いを大切に深く感じとり、かけがえのない誼として、互いの関係を濃密に築くことができたのではないかと考えます。
短い寿命と距離の間遠さにもかかわらず、そこにはどこかゆったりした時間の流れが感じられます。そしてそこに「一期一会」の深意をうかがい知ることができるのです。
ひるがえって今日のわれわれは、いくら離れていてもお互い同士が、いつでもどこでも会話を交わすことができ、また先の東京-長崎、それ以遠の所であっても、ほとんどがその日のうちに行き来できるという、非常に便利な時代を生きています。
さらには待ち合わせも、お互い至近距離にいるにもかかわらず、携帯電話で居場所を確かめつつ、ということもふつうに行われています。
しかし一方で、この緊密さ便利さがかえって人と人との交流を軽薄なものにしていることも否めません。
今や一期一会を説く人も習う人も、あの時代と等し並みの胸の裡を実感する環境にはありません。
一期一会とは、「一生に一度限りであること。」と然るていに頭をよぎる四字熟語の世界に追いやられてしまったように思われます。
幸い剣道は、竹刀と竹刀を交えた遣り取りを、生死をかけた真剣勝負と見なし、相互に熱き攻防を展開するものであります。また出稽古など、見知らぬ相手との手合わせとなれば、ことさら一期一会を唱えることなく、おのずとその深意が実感されるものであります。
剣道は伝統文化といわれますが、形だけではなく心の在り方をも延々と受け継がれており心強く感じるものです。
ともあれ濃密と緊密とは、似て非なるもののようですが、まことにもって濃密な時を生きた吉田松陰は、30歳のとき斬首刑に処せられます。そして辞世の句
身はたとひ武蔵野の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂
を残しました。
松陰の斬首役を務めたのが*山田朝右衛門です。斬首役には処刑者の名前は知らせませんが、朝右衛門は後日、「安政六年十月二十七日に斬った若侍はことのほか見事な死に際であった」と語ったとのことです。
松陰の国を思う志の強さと、まぎれのない行動に甚く感銘を受けたしだいです。
つづく
* 江戸中期以降、代々、将軍の刀のためし斬りを本職とし、また死罪執行のとき斬首役をも引き受けた浪人。世に首斬朝右衛門と称。初代は1700年頃の人。(『広辞苑』より)
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