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わが国の〝かたち〟をとりもどそう - 武道のすすめ -  ⑤

その九十三
わが国の〝かたち〟をとりもどそう
- 武道のすすめ -  ⑤
 
十 教育のありかた
 教育は社会の安全と密接に関係する。
 戦後の教育は、子どもたちの自主性を尊重することを是として行われてきた。子どもたちの自主性を尊重するということは、親や教師がひとつのことを教え導こうとする場合には、納得させるための「論理」が必要となる。そして、子どもたちはそれに得心した場合にのみ教えに従うというのが構図となっている。そういうことから近年、型稽古のような「有無を言わさず守らせる」という教育がなおざりにされてきた。
 現在の子どもたちは「なぜ人を殺してはいけないの」また「なぜ援助交際がいけないの」などと、「なぜ」とうそぶいて親や教師たちを困惑させる。その「なぜ」、に満足な論理が展開できず大人たちは子どもの前にたじろいでしまうのである。戦後教育の弊害はここにも表れ、家庭崩壊や教育崩壊の一因にもなっている。
  藤原正彦の近著『国家の品格』は、このような現在の教育問題の根幹について一石投じるものであった。ここにその主要な部分を抜粋する。
 
<論理だけでは物事は片付かない、論理的に正しいということはさほどのことはない。数学者のはしくれである私が、論理の力を疑うようになった。そして「情緒」とか「形」というものの意義を考えるようになりました。>
 
<野に咲くスミレが美しいことは論理で説明できない。モーツアルトが美しいということも論理では説明できない。しかし、それは現実に美しい。卑怯がいけない、ということすら論理では説明できない。要するに重要なことは論理で説明できない。論理で説明できない部分をしっかり教えるというのが日本の国柄であり、またそこに我が国民の高い道徳の源泉があったのです。>
 
 藤原は、論理の限界を説き、「なぜ」とのうそぶきには、「『駄目だから駄目』ということに尽きる」ときっぱり言い切っている。
 論理を専らとする数学者の言辞だけに、まさに得たり、目から鱗が落ちる思いで本書をおし頂いた。
 この論理によらない教育は、最近各方面で見直されてきた。学習指導要領の見直しを進めている中央教育審議会の教育課程部会は、小学校の国語教育に古文や漢文の暗唱を導入する方向で検討に入ったという。古典の暗唱は精神活動の骨組みを作るのに大きな力を持っているということだが、この暗誦も「型」による習得と同じである。定められた一定の文型を繰り返しひたすら音読することにより暗記する。そして「型」の習得ともいえる暗記が、先人の魂を心の基層部に深く刻印するというものである。
- まず〝型〟にはめることが肝心 -
 
十一 武道と武士道
 戦前、柔道、剣道は、体育の一種目としてではなく、独立教科として教育に採り入れられていた。それは明治期、文明開化を標榜する主知主義教育の偏向が、気力・体力の錬成をおろそかにしたことを認め、古来の武道がわが国の学校に最も適した体育法として重視したゆえである。それは言うまでもなく江戸時代の藩校にならったものである。また気力・体力の錬成のみならず、かつて武士のたしなみであった武道を修練することによって武士道的精神を培うというものである。古来武士道精神は、武道との関連で考えられ、武道と武士道を直結させてきた伝統がある。
 警察では、明治のはじめ近代警察発足とほぼ同じ時期から柔道、剣道を正課として採り入れている。それは柔道、剣道が武術としても人格陶冶の面でも有益なものであるとしてのことである。明治半ば期、警視総監で後に武徳会会長を務めた大浦兼武は、「警察官は武士であり武士道が警察官の精神を支配すべきだ」と主張し、武道の奨励を説いた。さらに大正時代はじめ、警視総監であった西久保弘道(後の武徳会副会長兼武道専門学校校長)は、警察官が武道の訓練をする目的は「体力を鍛え胆力を練ることである」と力説した。また現在でも、警察官に最も必要とされる、「正々堂々」「勇猛果敢」「潔さ」「廉恥」といった武士的な態度は、武道を鍛練することにより培われるとして、その振興が図られている。そして昔日の「主君に献身」というモラルの「主君」を、「国家及び国民」に置き換え、高い倫理観を保持しようと努力してきた。
 このように警察で正課として行ってきた柔道、剣道が、やがて広く国民に波及し、武士の精神文化として、わが国古来の伝統に育まれ、精神と身体が一体化してきわめられた。
 戦後、受難に遭った武道や武士道も、わが国ことごとくに道徳の退潮した今日、失われつつある固有のアイデンティティの復活が叫ばれるなか、ようやく市民権を取りもどしつつある。書店においても、新渡戸稲造の著をはじめ、武士道に関する書物が数多く並べられるようになった。NHK大河ドラマも侍ものが定番となっている。まさに世の中は、「さむらい」の出現を渇望しているかのようである。
- 武道の修行が〝さむらい〟をつくる -
 
おわりに
 目下、新たな教育改革が進められており、「新しい時代を切り拓く心豊かでたくましい日本人」の育成が教育目標に掲げられた。また改革の方向を示すことばの中に、伝統的な美徳を強化しようとする文言が随所に盛り込まれている。「武士道」というものが見直されてきた背景にはそういった気風の醸成がある。今いう「武士道」は、封建制度のもとで暗い陰を落とした因循姑息な悪しき一面ではなく、古来より伝わる「大和魂」「大和心」を元とした日本人特有の心根を集大成したものをさしている。それはまさしく「日本人のアイデンティティー」を意味し、国民精神を育むはたらきをもつものである。英国には「英国人魂」があり、ドイツには「ドイツ人魂」があるように、どの国の国民にも、どの民族にも、国民精神というべきものがある。国民の精神は、一人ひとりの国民にとって生きる力の根源になるものであり、また、国民の精神を共有する社会は、互いに尊敬し合い、無用の争いが少なく、共に同じ方向に向かって生きていくことができる力強い社会となるのである。今いかに戦後失われた公序良俗の美風を再生させるかが問われている。
 わが国の伝統的な武道の修行には、「武士道」をあげるまでもなく、人間を形成する教育法として現代教育に欠けたさまざまな優れた要素をもつ。
 少しでも多くの人が柔道、剣道をはじめとする各種武道をたしなむことによって、日本人らしい倫理観や道徳観が培われることを切に願うものである。
 
◇あとがき
 筆者は現在、警察大学校で術科(主に剣道)指導の職にある。このたびのテーマである「社会の安全と日本人の倫理」を筆者の立場で考えるとき、全国各地に遍く存在する警察署の柔剣道場を効果的に活用するにしくものはないと思いを強く致すものである。
 平成十四年に国家公安委員会規則として「少年警察活動規則」が制定された。そして同規則第九条(少年の規範意識の向上等に資する活動)に「柔道、剣道等のスポーツ活動その他の少年の規範意識向上」が掲げられた。また同規則の実効を図るため警察庁次長通達で「警察署の道場等における少年柔剣道教室、スポーツ大会はもとより、少年の居場所づくりに資する多種多様な活動を新たな発想に基づき推進することが期待されるものである」と述べられているところである。
 周知のとおり警察では警察官必須の術科として柔道、剣道の訓練が義務づけられている。そして警察署には必ず柔剣道場が設置されており、また指導者となり得べき高段の警察官を多く擁している。もっとも同規則制定以前から多くの警察署では道場を開放して、柔道、剣道指導担当者や有志の警察官により、地元の少年への指導が行なわれている。また警察署の道場による柔道、剣道の活動は少年指導だけに止まらず、広く地域住民や愛好家の武道交流の場となっているところもある。しかし同規則の趣旨を体しようとするならば、全国的に見てまだまだ不十分と言わざるを得ない。「仏作って…」とならないためにも、なお一層の推進が図られてしかるべきだと考える。この小文の副題を「武道のすすめ」としたが、全国各警察署を拠点とした柔道、剣道普及発展のための一助となれば幸いである。
 また筆者は同時に、現代武道の競技スポーツ化を懸念する者であることをつけ加えたい。武道のあり方についても言及すべきであったのかもしれないが、紙数の都合と本題の論点をぼやけさせないためここでは控えた。武道の中味についての問いかけは、機会を改めて文を起こすこととしたい。 了
 
- 参考・引用文献 -
『武士道』新渡戸稲造(岩波文庫)
『菊と刀』ルース・ベネディクト(社会思想社、現代教養文庫)
『日本人の身体観の歴史』養老孟司(法蔵館)
『この国のかたち』司馬遼太郎(文藝春秋)
『国家の品格』藤原正彦(新潮社)
『いま、なぜ「武士道」か 美しい日本人の精神』岬龍一郎(致知出版社)
『「剣道事典」-技術と文化の歴史-』中村民雄(島津書房)
『日本人の精神再興』(第3回剣道文化講演会抄録)
「月刊剣窓」平成17年3月号・鳥居泰彦
平成28年11月8日
 
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なぜ、日本人選手はプレッシャーに弱いのか

その六十三
なぜ、日本人選手はプレッシャーに弱いのか

 前回、浅田真央選手のソチ五輪でのフリーの演技について、「メダル争いのプレッシャーがなかったからこそ、自分の演技に集中できた部分もある」と評されたことについて、メダル争いの渦中にあればとてもあの演技ができなかった、と言わんばかりの評価ですが、いかがでしょう。
 また、金メダル最有力とされた女子スキージャンプの高梨沙羅選手も、4位入賞にとどまる結果に終わりました。不利となる追い風を受けたのがその原因とされていますが…。
 それでいて、ソチ五輪直後の3月1日、ルーマニア・ルシュノフで行われたワールドカップ第14戦で、シーズン11勝目(通算20勝)をあげ、2シーズン連続の総合優勝を難なく果たしました。
 やはりオリンピックは格別、計り知れない重圧がかかったものと思わざるを得ません。
 髙梨選手は、ソチ五輪でのジャンプについて、「平常心を保っていたつもりだけど思い通りに飛べなかったのは自分のメンタルの弱さ。もっともっと強くなりたい」とインタビューに答えていました。
 このように、浅田選手や髙梨選手だけでなく、総じて日本人選手はプレッシャーに弱いと言われています。それも、〝日本人らしくあればあるほど〟です。
 このように思い至って、はっと、何十年も前に読んだ『菊と刀』(ルース・ベネディクト著)が胸をよぎりました。
 この『菊と刀』は、今から68年前の1946年(昭和21年)に刊行されました。年配の方には読まれた人も多いと思いますが、欧米人による日本文化論の名著としてベストセラーになりました。
 同書でベネディクトは、

 日本人は礼儀正しいといわれる一方、不遜で尊大であるともいわれ、頑迷固陋であると同時に新しい事物への順応性が高いともいわれる。
 また美を愛し菊作りに秘術を尽くす一方では、刀を崇拝し武士に最高の栄誉を与える。
 このようにまるっきり正反対の性質が共存している。それは欧米の文化的伝統からすれば矛盾であっても、「菊と刀」は一枚の絵の二つの部分である。

と分析し、日本文化の型を欧米の「罪の文化」と対比して、「恥の文化」であると断定しました。
 同書を要約すると、「罪の文化」と「恥の文化」、この両者の違いは、行為に対する規範的規制の源泉が、内なる自己(良心)にあるか、それとも自己の外側(世評とか知人からの嘲笑)にあるかに基づいているとするものです。
  要するに西欧では、道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みとする社会だから「罪の文化」をもち、他方、日本の社会は、外面的強制力に基づいて善行を行うような「恥の文化」に属しているとします。
 つまり「罪の文化」では、悪い行いがたとえ人に知られなくても自ら罪悪感にさいなまれるが、「恥の文化」では、人前で恥をかかないようにすることが道徳の原動力となるというものです。
 新渡戸稲造の『武士道』を持ちだすまでもなく、日本には宗教教育がないという観点において、西欧人は「神との約束」という絶対的な基準があるのに対し、日本人は神への信仰ではなく「世間様の目」が価値基準になっているとしています。
 当然こういった単一な決めつけ方には承服し難い部分もありますが、われわれ日本人が自らを振り返るとき、このベネディクトの一説に思い当たるふしがあると考えるのは筆者だけではないはずです。

 さて、五輪の話にもどりますが、日本人がプレッシャーに弱いという原因を突きつめれば、ベネディクトが「恥の文化」と指摘する、「世間様の目」を基準とするがゆえ、ということに帰結するのではないでしょうか。
 日本人の特質とされる「義理」「恩」「恥」という観念を強くもち合わせている人ほど、その反面、プレッシャーに弱い、といえるのかもしれません。
 ある選手に世間から好成績への期待が高まれば高まるほど、その逆、期待を裏切ることへの恐怖心が先立つわけです。いわゆる「生き恥をさらす」のでは、と思いつめてしまうことです。
 それにひき替え西欧の選手は、神という絶対者への帰依とその加護を固く信ずる精神世界にある、とするならば、彼らには世間体というのはまるで重圧になり得ない、と考えられます。
 ただ、プレッシャーの原因は、このような一元的なものだけではないのでしょうが…。
 では、日本人らしい精神構造をそのままにしながら、しかも、のしかかるプレッシャーに打ち勝ち、最高の技能を発揮するにはどうすればよいのでしょうか。
 それは、罪の文化でもなく恥の文化でもない。わが国では、伝統的に培ってきた「武の文化」にあると申し上げたい。
 この「武の文化」については後述するといたしまして、ここでは、日本人心理の核心をついた『菊と刀』でありますが、同書をお読みになっていない方のために、著者のルース・ベネディクトについて簡単に紹介いたします。
 ルース・ベネディクト(1887~1948)は、アメリカの女性文化人類学者で、コロンビア大学の教授にあり、文化とパーソナリティを研究し、日本の文化の基本的特徴を最初に指摘した人物であると言われています。
 太平洋戦争が勃発して間もなくアメリカでは、対日占領政策策定委員会というものが、はやばやと設立されます。そして米政府は、ベネディクトに同委員会の委員として日本研究の仕事を委嘱しました。
 戦時中ゆえ現地調査が不可能であるため、彼女は、日本に関する書物、日本人の作った映画、在米日本人との面接等を材料として研究をすすめ、対象社会から文化類型を抽出する方法に基づいて、日本文化の基調を探究しました。書物としては、新渡戸稲造著『武士道』を繰り返し繰り返し読んだようです。
 ベネディクトは、この研究をもとに『菊と刀』(The Chrysanthemum and the Sword)を執筆し、終戦直後の1946年(昭和21年)に刊行されますが、この2年後の1948年(昭和23年)に、生涯一度も日本の地を踏まぬまま61歳で亡くなりました。
 ちなみに、ベネディクトが委員を勤めた対日占領政策策定委員会が策定した日本の占領方針は、
(1) 天皇制を維持する方が支配しやすい。
(2) 軍政をしかず日本政府に政治を行なわせる。
(3) 貨幣を改めない(超インフレとなることを懸念して)。
(4) ソ連に分割統合させない。
というものであったとのことです。
 先月、4月23日~25日にオバマ米大統領が来日いたしました。国賓として米大統領が日本を訪れるのは18年ぶりとのことです。この度のオバマ大統領の来日は、交渉ごとの難航はあったものの、今まで以上に強固な日米関係を確認し合った、と映りました。
 まさに、隔世の感を禁じ得ない、思いひとしおです。
つづく

日本人は武士道を知らない、のか

その四十八
日本人は武士道を知らない、のか

 8月23日付「最新情報」拙稿号外では、『剣窓』9月号掲載『日本人の知らない武士道』
(アレキサンダー・ベネット著)の書評を転載いたしました。

 紙幅の都合もあり、やや言葉足らずでしたが、これが呼び水の役目を果たし、たくさんの方に読んでいただくことができれば幸いです。

 ベネット氏は同書で〝日本人は武士道を知らない〟と一喝しているわけですが、それは、ほとんどの日本人が描く武士道が、新渡戸稲造著『武士道』に基づいている点を指摘しています。

 ここで、小稿その三「道徳の国ニッポン」で取りあげた、新渡戸稲造が『武士道』を著すきっかけとなったくだりを、ここでもう一度紹介いたします。

 新渡戸が青年期、ヨーロッパ留学中に某教授と交わした会話です。

「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」と、この尊敬すべき教授が質問した。
「ありません」と私が答えるや否や、彼は打ち驚いて突然歩を停め、「宗教教育なし!どうして道徳教育を授けるのですか」と、繰り返し言ったその声を私は容易に忘れえない。
 当時この質問は私をまごつかせた。私はこれに即答できなかった。というのは、私が少年時代に学んだ道徳の教えは学校で教えられたのではなかったから。
私は、私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析をはじめてから、これらの観念を私の鼻腔に吹きこんだものは武士道であることをようやく見いだしたのである。 (岩波文庫版『武士道』矢内原忠雄訳より)

 また新渡戸はアメリカ人女性と結婚していましたが、その妻からもその教授と同じような質問をしばしば受けており、このことが『武士道』執筆の端緒となったといいます。

 ヨーロッパ留学から10年ほど後、体調を崩し米カリフォルニア州で転地療養中、英文で『武士道』を書き記します。
1899年、新渡戸が38歳の年です。
 1899年といえば明治32年、時あたかも日清戦争(明治27~28年)と日露戦争(明治37~38年)との狭間です。
 しかしその背後には、在米日本人移民排斥運動に深い関係があり、アメリカの対日本人観が非常に悪化し、また、白人優越の人種差別観が根底にあったようです。

 新渡戸は、「これではならない、日本人はそのようなもんじゃない、なんとかして世界の人に、日本人の精神の核となるもの、日本人の生活を根底から支えているものを知らせたい」という思いで書き上げたとのことです。

 その『武士道』が、当時のアメリカ社会から大変な賞賛を受け、続いてフランス語、ドイツ語などにも翻訳され世界のベストセラーとなりました。その後、逆輸入というかたちで日本語に翻訳され日本人の目にすることとなるわけです。

 その頃わが国では、日清戦争が勃発すると、「尚武の気風」が高騰し、平安神宮の境内に武徳殿を再興し、全国知名の武術家を集めて武術を奉納することが決められる。

 そして日清戦争の勝利は、日本が極東の後進国から世界列強の仲間入りを果たす大きな転機となり、世界の中の日本を意識させる。

 また、それとは反対に、日本固有のものへも目が注がれるようになった。

  明治28年「大日本武徳会」設立。

時を同じくして、「三国干渉」による遼東半島還付という事態にいたる。これに対し世論は沸騰し、
「臥薪嘗胆」を合い言葉に、国民的尚武の気風の高揚が叫ばれる。
  この三国干渉は日露戦争の誘因ともなった。

  明治32年「武徳殿」完成。という情勢下にありました。

 そんな折、『武士道』が世界から持ち上げられたものですから、書評で紹介した井上哲治郎の声高な論調を借りるまでもなく、にわかに武士道立国的な世論が膨らんでいったことは想像に難くありません。

 そこに、新渡戸の切実な思い、と、それを読んだ米欧人の共鳴、そして『武士道』を手にした日本人の
勇み立った感情との間に、大きなギャップがあったと言わざるをえません。

 このような時代背景のもと、武士道と不可分の関係にある武道がしだいに注目の度を高めていきます。

 他方、明治の比較的早い時期より政財官学民の有志から武道の正課編入運動が展開されていましたが、賛否両論が錯綜し、日の目を見ぬまま日露戦争に突入します。

 そして、日露戦争に勝利。
 その戦勝ムードさめやらぬ明治40年(1907)、帝国議会において「中学程度ノ諸学校ニ体育上正科トシテ、
剣術・柔術・*練胆操術(木剣体操)孰レカ其ノ一ヲ教習セシムヘシ」と可決いたしました。

 そして明治44年(1911)に「中学校令施行規則」が改正され、「撃剣及柔術ヲ加フルコトヲ得」と定まり、中学校の正課教材に採り入れられることとなりました。

 一方、剣道の海外での活動状況ですが、戦前においては二つの流れに大別されます。

 その一つは移民であり、アメリカ・ハワイ・ブラジル・カナダといった国へ移住した人たちの中の剣道愛好家が日系人社会に広め継承していったものです。

 もう一つの流れは、日清・日露戦争の後、日本の統治下にあった台湾と朝鮮半島で、本土から剣道専門家が派遣され学校や警察などで指導に当たりました。

 しかし、これは海外での活動というより、国内的にあるいは国内として、それぞれ当地に広がっていったといってよいでしょう。

 このように戦前においては、日本から海外へ剣道を積極的に広めようという顕著な動きはなかったようです。

 戦後は、数年間の活動空白期を経た後、武道色を抜き去り純粋スポーツとして復活を果たすこととなります。

 当然ながら当初は、海外に目を向ける余裕などなく、国内での普及に全力を傾けている状況でした。

 剣道が「国際」というものを意識する契機となったのは、昭和39年(1964)の東京オリンピックでした。

つづく

* 「練胆操術」とは、脳への危険性を除去するとともに、国内の剣術流派を統一し、一斉指導を可能とするために考案された剣術体操法である。
当時、衆議院議員であった剣術家の星野仙蔵が考案したものだが、西洋体操法に取って代わろういうもくろみもあったため、明治44年「中学校令施行規則」改正時には、時期尚早という扱いにとどまった。

竹刀の長さについて

その四十二

竹刀の長さについて

前回は、「大英博物館所蔵の竹刀」の写真を紹介いたしました。2本写っており、1本は明治3年(1870)に同博物館に寄贈されたものであり、もう1本は昭和3年(1928)に英国に持ち帰られたものです。

 いま一度、写真をご覧ください。

大英博物館所蔵の竹刀

 二つの竹刀の長さですが、上の明治3年の竹刀が四尺八寸(145.4cm)で、下の昭和3年のものが三尺八寸五分(116.7cm)です。


 昭和3年のものは現在われわれが使っている竹刀とほぼ同じ長さですが、明治3年の竹刀は30cmほど長い。この長さの違いをどのように考えらたらいいでしょうか。

 使用者の好みによるものか、それともその時代の流行によるものでしょうか。


 このとことについて井蛙の管見を述べさせていただきます。


 徳川幕府は、長年にわたり鎖国政策を敷いていましたが、江戸時代後期になると列強諸国からの開国要求が次第に強まって参ります。


 折から起こったアヘン戦争(1840~42)は、平和を安逸していた鎖国日本に大きな警鐘を鳴らしました。


 そして嘉永6年(1853)、ペリー来航です。


 日本国内は激しく思想が対立し、動乱の嵐が国中を吹き荒れます。その時の国情を巧みに言い表した狂歌に次のようなものがあります。


泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず


上喜撰はお茶の銘柄「喜撰」の上製という意味で、目覚ましに効能があるお茶ですが、たった四杯飲んだだけで夜も眠れないということに喩え、上喜撰を「蒸気船」、四杯をペリー艦隊「四隻」に掛けて、右往左往する武士社会を揶揄したものです。

 また次のようなものも、

武具・馬具屋、アメリカ様とそっと言い


国をあげての騒乱に刀剣や甲冑、馬具などを商う店がにわかに繁盛し、武士社会とは裏腹に、そっと〝アメリカ様〟と手を合わせる商人の心持ちを歌ったものです。


 外圧に刺激された江戸幕府は、武術振興のため*講武所を創設し、旗本・御家人に武術を習得させるための講習所としました。


 講武所の教授陣は、門閥にこだわらず実力主義で登用し、剣術師範役筆頭に*男谷精一郎があたるほか*榊原鍵吉、*桃井春蔵らが師範となりました。名門である新陰流の柳生家や小野派一刀流の小野家からは採用しませんでした。

 一方、このような世情を反映して国内では武術修行の意識が高まり、武者修行も盛んに行われるようになりました。

 そんななか武者修行者に筑後国柳河藩士の大石進という剣客がいました。

 大石は、身長が七尺(2m12cm)といわれる大男で、五尺三寸(160.6cm)の長さの竹刀を使いました。大石は、大石神影流の創始者で槍術も嗜んでおり、大男の長竹刀から繰り出される片手突きは壮絶なもので、江戸の高名な師範たちを次々とうち破ったといわれています。

 江戸の各道場では、大石進の来訪に震撼したとのことです。


 *千葉周作は、大石進の突きを防ぐために四斗樽の蓋を竹刀の鍔に使用して戦い、かろうじて引き分けたという逸話が残っています。


 このようなことで江戸では長竹刀が大流行します。ですから写真のような四尺八寸の竹刀があっても別に不思議なことではありません。


 そこで講武所では「規則覚書」で、「撓は柄共すべて長さ曲尺にて三尺八寸より長きは相成らず」と定めました。


 なぜ、三尺八寸と定めたのか。


 剣術師範役筆頭の男谷精一郎が、一番長い五尺三寸(大石進の竹刀)と一番短かった二尺三寸の竹刀の長さを足して2で割った、と、まことしやかに言われていますが、真偽のほどはわかりません。

 こういった決め方は非常に日本的ではありますが、得物を等しくしようとする発想は西洋的でもあります。

 ここで決められた竹刀の長さが今日まで受け継がれて来ているわけです。


 戦前の武道の統括団体であった「大日本武徳会」では、明治40年(1907)年の「剣術講習規程」で「竹刀は三尺八寸を度とする。但し躯幹の長短等により幾分伸縮することを妨げず」と定めました


 このことにより三尺八寸が定寸化しました。


 現在全剣連では、一般男子の竹刀の長さを「120センチメートル以下」と定めています。三尺九寸強ですが、これは昭和13年(1938)の学生大会の試合規定で、「竹刀の長さは三尺九寸以内…」との定めが基になっていると考えられます。


 戦後は、旧学生剣道連盟関係者が中心となって全剣連を組織した関係上、定寸が三尺九寸となったと考えられます。


 なかには短い竹刀をつかう流派があったり、また戦前の一時期において「三尺六寸以内」と定めた試合もありましたが、このことについてはここでは言及いたしません。つづく

*

以下『広辞苑』より


講武所
幕末、旗本・御家人に砲術・槍術・剣術・弓術を習得させるために設けた講習所。1854年(安政1)講武場として発足。56年築地鉄砲洲に正式開設。その後神田小川町に移す。66年(慶応2)陸軍所に合併吸収。


男谷精一郎
江戸後期の剣客。幕臣。名は信友。直心影流などの達人。講武所頭取兼剣術師範役。門下に島田虎之助・榊原鍵吉らが出た。後世、剣聖と呼ばれる。(1798~1864)


榊原鍵吉
幕末・明治の剣客。直心影流の達人。幕臣。名は友善。男谷精一郎に学び、講武所剣術教授方。維新後、撃剣興行・天覧試合・兜試斬で名を得た。(1830~1894)


桃井春蔵
幕末の剣客。名は直正。沼津藩士の家に生れ、鏡新明智流士学館に入門。4代目を継ぎ、江戸一流の名声を得た。のち幕府講武所で指導。(1825~1885)


千葉周作
幕末の剣客。北辰一刀流の祖。陸前の人。中西派一刀流などを学び、江戸に出て玄武館を開き多くの入門者を集めた(1794~1855)。
プロフィール

新宿区剣道連盟

Author:新宿区剣道連盟
「井蛙剣談」への思い

 「井の中の蛙大海を知らず」と自覚しつつ
「井の中は誰よりも知っている蛙」に成り代わり書き進めてまいります
つたなき指導の一環とお受け止めいただければ幸いです
               真砂 威

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